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【書評】Aparajith Ramnath, The Birth of an Indian Profession: Engineers, Industry, and the State 1900-1947 (New Delhi, Oxford University Press, 2017)

Aparajith Ramnath, The Birth of an Indian Profession: Engineers, Industry, and the State 1900-1947 (New Delhi, Oxford University Press, 2017), xvi+266pp.

 

The Birth of an Indian Profession: Engineers, Industry, and the State, 1900–47 (English Edition)

The Birth of an Indian Profession: Engineers, Industry, and the State, 1900–47 (English Edition)

 

 

 

 イギリスが帝国支配の関心を大西洋からアジアへと切り替えて以降、インドは帝国経済の維持にとって重要な拠点であった。イギリス、アフリカ、アメリカの3点を結ぶ奴隷貿易が1807年に正式に議会で廃止されると*1、イギリスが照準を定めた次なる3点はイギリス、インド、中国であった。本書はそうしたイギリス帝国の要所として機能したインドが独立する過程において、インド国内の「技術者」(engineers)を取り巻く環境を明らかにするものである。従来のインドの独立過程を扱った研究の中には、インド人をいくつかの階級に分類した上で、とりわけインド人資本家階級の活動に注目したもの*2はあったが、その資本家階級が営む産業内の技術者に関する言及は乏しかった。本書はインドの技術者を媒体として、政府(政治家)や民間企業(資本家階級)がいかにしてインド国内の産業・経済の「インド化」(Indianization)を志向してきたかが描かれている。

 本書は政府によるインド化の事例として、インド公共事業局(Public Works Department:以下、PWD)とインド国内の鉄道を取り上げ、これらにおけるインド化はイギリス側の都合を契機とした極めて消極的な要因で促進されたと述べる。一方で、民間企業によるインド化の事例としてはタタ財閥グループのタタ鉄鋼(Tata Iron and Steel Company:以下、TISCO)を取り上げ、一企業による技術者の生え抜き教育がインドにおける専門職の誕生に大きく貢献したと結論付ける。

 

 本書の構成は以下のとおりである。

 <目次>

 序章:インドの技術者 1900~1947年

 第1章 背景:インド史におけるインド化と工業化

 第2章 浸透:専門学校と技術者間のインド・アイデンティティの成熟

 第3章 適合者:インド化とPWDの技術者の文化

 第4章 平和の維持者:鉄道におけるインド化の効率、忠誠、限界

 第5章 帝国と国家を超えて:タタ製鉄の専門職技術者

 結論

 

 以下では、「1.各章の概要」にて本書の議論を整理し、評者の関心をもとに「2.本書の疑問点」に言及していきたい。

 

1.各章の概要

 まず、序章から第1章では、「インド化」(Indianization)やインドの「工業化」(Industrialization)に関する先行研究において、工業の担い手である「技術者」が看過されてきたことが指摘されている。インドにおける工業従事者の階級意識に関する研究は多々あれど、技術者がインドの工業発展に大きく寄与したことについては無視されてきたという*3。20世紀初頭まで、インドにおける技術者はそのほとんどがPWDに所属するイギリス人であったが、戦間期以降、徐々にインド人技術者の割合が増加し始める。著者はこうした組織におけるインド人割合の増加を「インド化」と定義した上で、インド化の軌跡を探ることを本書のテーマとして設定している。また、第1章では議論の前提として19~20世紀初頭までのインドにおける技術職の背景について述べている。当時のインドで技術者となるにはPWDに就職することが必須であった。PWDの技術者採用の門戸はイギリス政府による採用とインド現地における採用の2種類が存在しており、イギリス人はこの双方に応募が可能であったが、インド人は原則インド現地採用の機会しか与えられていなかった。さらに、採用口の違いによってその後のキャリア形成(いわゆる出世)や給与、福利厚生に大きな差があった。いうまでもなくイギリス政府による採用口の方が優遇されていたのである。ただし、業務内容に関しては採用口による違いはなかったという。インド人には事実上インド現地での採用口しか選択肢がなかった*4ため、採用口の違いによる差別はそのまま人種に対する差別であったといえよう。

 続く第2章では、上記の差別意識やイギリス人技術者のインドへの帰属意識の芽生えを契機として、PWDにおけるインド化の志向が高まったことを明らかにしている。インドの公共事業において技術部門を担当するPWDはそもそもイギリス本国とのつながりが強く、20世紀初頭においてイギリス政府採用でPWDに就職するためにはイギリス土木学会(Institution of Civil Engineers:ICE)やイギリス機械学会(Institution of Mechanical Engineers:IMechE)、イギリス電気学会(Institution of Electrical Engineers:IEE)等のロンドンを本拠地とする学会に所属していなければならないという暗黙の了解が存在した。しかしながら、上記学会に所属するインド在住の技術者たちはインドへの帰属意識を徐々に涵養させ、1910年頃インド現地においてこれらの学会の地方支部設立を試みる。こうした有志による活動は1920年、インド技術者協会(Institution of Engineers (India):以下、IEI)の発足に結実する。IEIへの入会は広く門戸が開かれており、専門教育を受ける機会のないインド人が技術職に就くための受け皿となっていたこともあり、インド人技術者の絶対数の増加に貢献した。また、PWDのイギリス人技術者の多くが帝国紐帯を強く意識していたのに対し、IEIに加入するPWDのインド人技術者はインド全土における技術者の紐帯を求めていた*5。すなわち、インドへの帰属意識が帝国への紐帯を上回ったことによりインド化の波が押し寄せたのである。

 このようにインドにおける技術者のインド化の機運が高まる中で、実際にどのようにしてインド化が進められたのかを明らかにするのが、本書の第3章以降の議論である。第3章ではPWD内の技術者においてインド人の割合が増加していった過程を検討している。まず、先述した採用口の違いに起因する差別や待遇の格差を是正するために、1920年にイズリントン委員会(Islington Commission)によるPWDの体制改革が実施されるも、これがさほどインド化に寄与しなかったことを述べている。その理由として以下の2点が挙げられている。1つ目は、採用口による格差是正を図っても、イギリス人の技術は実務上不可欠であり、PWDからイギリス人の採用を疎外することはできなかったこと。2つ目は、伝統的にイギリス人が大部分を占めていたPWDの技術者には「ジェントルマンであること」が求められており*6、上級職に就くイギリス人から見てインド人は「適合者」(men of character)たり得なかったため、インド人の採用増加につながらなかったということの2点である。一方で、1920年前後において、PWDのインド人技術者の割合が徐々に増加に転じたことも本書の著者は見逃していない。しかし、その要因はローラット法制定を契機としたインド現地の治安の悪化*7によりPWDを受験するイギリス人が著しく減少したことにあるとしている。すなわち、PWDにおけるインド化はイギリス人割合の減少によって促進されたのである。

 第4章ではインドの鉄道部門におけるインド化を扱っているが、そもそもインドの鉄道会社は1905年までPWDの傘下にあり、PWDと同様インド人に対する差別的な慣習を伝統的に引き継いでいた。ただし、鉄道において技術者に求められた能力はPWDに見られたような「ジェントルマンらしさ」ではなく、「効率的」であることと「忠誠心」であったという*8。このため、鉄道におけるインド化の特徴はPWDと類似したものとして描かれている。鉄道におけるインド化の契機として挙げられているのは1923年のリー委員会(Lee Commission)である。そこでは鉄道会社内のインド人の割合を75%まで引き上げることが目標として掲げられたが、インド人技術者はイギリス人技術者に比べて十分な実務教育の環境が与えられていなかったため、インド人が「非効率的」であるという偏見は依然として根深く、イギリスにとってインド人技術者の増加は受け入れ難かった。そもそも鉄道事業には、対外的にも国内的にも「安全保障」の側面で極めて重要な役割を果たす軍事的性格があり、これは植民地統治への「忠誠心」という形で顕現していた。すなわち、鉄道事業は帝国の植民地政策と密接に関わっており、安全保障を担う鉄道事業に「効率的」に従事することが帝国への「忠誠」を示したのである。植民地統治への忠誠とインド化が両立し得ない相対する思想であったことはいうまでもない。こうした背景から、インド植民地の平和を維持するためにも鉄道事業にイギリス人技術者の存在は不可欠であったため、リー委員会もイズリントン委員会と同様、インド化にほとんど寄与しなかったことが述べられている。しかしながら、鉄道会社においてもインド人の割合は徐々に増加の一途をたどり、1930年代末には全体の50%に達する。この背景として、著者は次の2点によるイギリス人のインドからの流出を挙げている。1つ目は1930年代にインドを襲った不況により、インドの鉄道部門への就職がイギリス人にとって魅力的ではなくなったこと。2つ目は第二次世界大戦の勃発によってイギリスでの採用が急遽中止となり、現役であったイギリス人技術者も戦争協力のためにインドを離れざるを得なかったということ。この2点によるインドからのイギリス人の流出が、鉄道におけるインド人技術者の割合を相対的に高めた。イギリス人技術者の減少に依存していたという意味で、PWDと鉄道におけるインド化の過程は極めて類似している。すなわち、インドにおけるPWDおよび鉄道部門のインド化は、極めて消極的な理由で進行したといえよう*9

 上記2つのインド化の事例と対比して、第5章では民間企業のインド化について検討されている。とりわけ、20世紀初頭よりインド初の大規模鉄鋼会社として名を馳せたTISCOを民間企業の代表として取り上げ、PWDや鉄道とは異なる方法でインド化が進行したことを、タタ製鉄公文書(Tata Steel Archives)を用いて明らかにしている。TISCOはジャムシェトジー・ナッセルワンジー・タタによって構想された初の完全インド資本による鉄鋼会社であるが、発足に際してはアメリカ人技術者による貢献が大きい。先行研究上、こうした外国人技術者の存在は認知されてはいるが、彼らがTISCOにもたらした技術教育、専門知識、技術者文化については詳細な検討がなされていないという。そこで著者は、ジャムシェトジーがTISCOを立ち上げる際に出会った様々なアメリカ人技術者の名を具体的に挙げ、TISCO創設の過程を写実的に描き出している。鉄鋼技術の輸入をアメリカに頼った理由については詳細に検討されていないが、TISCOは一貫して脱イギリス的な構想の下にあったことが強調されている。また、従業員に関しては、アメリカ人に限らず世界各国から技術者を集め操業が開始されたが、これら外国人技術者を徐々にインド人に置き換えていくことがTISCOの目指すところであった。すなわち、発足当初における外国人技術者の雇用はあくまでも「初期投資」に過ぎなかった。そして、TISCOによるインド化の試みは1921年のジャムシェドプル工業専門学校(Jamshedpur Technical Institute:以下、JTI)に結実する。JTIはTISCO直属の運営によるインド人技術者の生え抜き教育を目的とした専門学校であったが、ここでの教育はゼネラリストが求められたPWDとは異なり、専門分野の熟練に心血を注ぎ、「生き字引」(walking encyclopedia)となるほどに専門性を高めるためのものであった*10。ここに、インドにおける専門職の誕生(The Birth of an Indian Profession)が示されているといえよう。JTIによる生え抜き教育の成果として、実際に1926~1933年の間に大部分の外国人技術者がインド人に取って替わったという。TISCOによるインド化の過程は、イギリス人の減少に依存していたPWDや鉄道のインド化とは異なり、インド人自らが志向した自発的な現象であったとするのが本書の結論である*11

 

2.本書の疑問点

 以下では評者の関心に基づいて、本書のいくつかの疑問点について言及しよう。本書はインドがいかにして帝国支配に抗い、新たな権利を勝ち取ってきたかというインド独立史の研究に位置づけられるであろうが、技術者へとフォーカスしたことによって、その雇用主である資本家の思想や資本家-技術者間の労使関係等の記述がやや希薄な印象を受ける。このことに関連して、以下に3つの論点を掲げたい。

 第一に、本書では民間企業の代表としてTISCOを取り上げ、これが自発的なインド化に貢献したと結論付けているが、創始者であるジャムシェトジーに関する情報は決して多くはなく、彼の行動原理とインド化との関係がやや見えにくい。具体的には、なぜジャムシェトジーはTISCOの創設に際してアメリカの技術を求めたのか?なぜ脱イギリス的な思想を持つに至ったのか?なぜ技術者のインド化を画策したのか?等の点で疑問が残る。須貝によれば、ジャムシェトジーはもともと親イギリス的な資本家であったが、19世紀後半の独立機運の高まりや被差別体験などからやや反イギリス的な態度に転換したといわれている*12。本書でも、ジャムシェトジーの思想および経済ナショナリズム*13といった側面からの分析があれば、脱イギリス的思想やインド化の動機をより詳細に描き出すことができたのではなかろうか。

 第二に、資本家-技術者間の労使関係についてである。JTIは過酷なカリキュラムゆえ、中途脱落者が後を絶たなかった*14というが、潜在的な労働者たるJTIの候補生とTISCOとの間におけるトラブル等の記述は史料の制約の関係かほとんど見られない。また、インド化によって外国人と置き換えられたインド人技術者の給与については、最大で外国人技術者の3分の2が関の山であったという。著者は人件費を逼迫する外国人技術者が、それよりも安価な給与で雇用できるインド人に取って替わったことにより、TISCOに節約の効果がもたらされたとして、このことを肯定的に評価している*15。一方でこの事象は、民間企業によって推進された「自発的なインド化」も、PWDや鉄道と同様に人種の壁を破ることはできなかったことを示してはいないだろうか。こうした人種間の待遇から生じる労使関係の確執についての検討も興味深い。このように、いわゆるマルクス主義的な視点から技術者を観察することで、当時のインド人技術者の生態がより鮮明に浮かび上がってくるのではないか。

 第三に、インド化という概念そのものに対する疑問である。JTIに途中脱落者が多かったことは先に述べたが、修了生の中でも能力が十分な水準に達していないと見受けられる者も多く存在し、JTIは1935年より教育改革に踏み切る。その際に、候補生の選抜において新たに加わった評価項目が海外での就業経験の有無であった*16。「自社による生え抜き教育」も盤石というわけではなかったのである。このことは、製鉄・製鋼に必要な技術がインド国内だけでは十分に根付いてこなかったことを示している。すなわち、この論点は技術の土着化(indigenization)の議論へと発展可能である。著者は技術者の専門教育や技術者の国際的なネットワークに注目することで、既存の工業化モデルを仮定しないポスト植民地時代の新たな工業化への道が開けると主張しているが、その具体的な展望までは示していない*17。一方で、インドの航空機産業の自立化(indigenization)に関する研究で貢献のある横井は、インドにおける航空機産業の発展について具体的なプロセスを示している。横井によると、インドにおける他国からの技術移転を経た航空機の国産化には次の7つのステージがあるという。すなわち、①修理とオーバーホール、②部品の製作、③部品製作から完成品組立へ、④半完成品の生産、⑤ライセンス生産、⑥構成部品の設計開発、⑦兵器完成品の設計開発と生産という7段階である*18。本書で扱われたTISCOの製鉄・製鋼業と航空機産業とでは本質が異なるため一概に比較はできないであろうが、製鉄・製鋼業をはじめとした航空機以外の産業についても、上記のような「インド独自の工業化の過程」、すなわちインド化を超えた土着化(indigenization)の過程を具体的に示していく必要がある。

 帝国史の文脈において、広義の意味での脱植民地化とは、経済的・文化的・精神的側面において植民地が自立・独立を達成することであると定義される*19。脱イギリス的な思想でもって専門職を誕生させたという意味では、インドは脱植民地化における文化的・精神的側面をクリアしたといえよう。一方で、脱植民地化の経済的側面に関する議論は、著者の主張するように、既存の工業化理論を前提としないインド独自の新たな工業化理論を模索・確立することによって、深化させることができそうである。そうした課題を提示したという意味で本書は、脱植民地化までを射程にした、今後の発展的な研究の土台となることが期待されよう。

 

 

参考文献

 

・Bridge, Carl.; Fedorowich, Kent., The British World: Diaspora, Culture and Identity (London, 2003).

The British World: Diaspora, Culture and Identity (English Edition)

The British World: Diaspora, Culture and Identity (English Edition)

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: Routledge
  • 発売日: 2004/11/23
  • メディア: Kindle
 

 

・Mukherjee, Aditya., Imperialism, Nationalism and the Making of the Indian Capitalist Class 1920-1947 (Delhi, 2002).

 

・ Ramnath, Aparajith., The Birth of an Indian Profession: Engineers, Industry, and the State 1900-1947 (New Delhi, 2017).

本書。

 

・P. J. ケイン、A. G. ホプキンズ(竹内幸雄、秋田茂訳)『ジェントルマン資本主義の帝国Ⅰ―創生と膨張 1688~1914―』名古屋大学出版会、1997年。

ジェントルマン資本主義の帝国〈1〉

ジェントルマン資本主義の帝国〈1〉

 

 

・P. J. ケイン、A. G. ホプキンズ(木畑洋一、旦祐介訳)『ジェントルマン資本主義の帝国Ⅱ―危機と解体 1914~1990―』名古屋大学出版会、1997年。

ジェントルマン資本主義の帝国〈2〉

ジェントルマン資本主義の帝国〈2〉

 

 

上記2巻本の原著はこちら(第3版)

・P. J. Cain; A. G. Hopkins, British Imperialism: 1688-2015, 3rd ed. (London, 2016).

British Imperialism: 1688-2015 (English Edition)

British Imperialism: 1688-2015 (English Edition)

 

 

秋田茂「19世紀末インド綿紡績業の発展と『アジア間競争』」秋田茂編著『「大分岐」を超えて―アジアからみた19世紀論再考―』ミネルヴァ書房、2018年。

「大分岐」を超えて:アジアからみた19世紀論再考

「大分岐」を超えて:アジアからみた19世紀論再考

 

 

・木畑洋一『イギリス帝国と帝国主義―比較と関係の視座―』有志舎、2008年。

イギリス帝国と帝国主義

イギリス帝国と帝国主義

  • 作者:木畑洋一
  • 出版社/メーカー: 有志舎
  • 発売日: 2008/04/21
  • メディア: 単行本
 

 

・須貝信一『インド財閥のすべて―躍進するインド経済の原動力―』平凡社、2011年。

インド財閥のすべて (平凡社新書)

インド財閥のすべて (平凡社新書)

 

 

竹内真人編著『ブリティッシュ・ワールド―帝国紐帯の諸相―』日本経済評論社、2019年。

ブリティッシュ・ワールド (明治大学国際武器移転史研究所研究叢書)

ブリティッシュ・ワールド (明治大学国際武器移転史研究所研究叢書)

 

 

・バーバラ・D・メトカーフ、トーマス・R・メトカーフ(河野肇訳)『インドの歴史』創土社、2006年。

 

・布留川正博『奴隷船の世界史』岩波書店、2019年。

奴隷船の世界史 (岩波新書)

奴隷船の世界史 (岩波新書)

 

 

・横井勝彦「戦後冷戦下のインドにおける航空機産業の自立化」横井勝彦編著『航空機産業と航空戦力の世界的転回』日本経済評論社、2016年。

 

*1:大西洋を中心に展開されたイギリスの奴隷貿易の廃止過程については、布留川正博『奴隷船の世界史』岩波書店、2019年、151~154頁が詳しい。

*2:例えば、Mukherjeeはインド人を資本家、政府、民衆(主に農民)に分類し、インド人資本家階級がイギリスの植民地支配に抗いながら政府と民衆に巧みに働きかけ、インド国内からの産業発展を志向した過程を描いた。インド人資本家階級はイギリス帝国からの独立を目指す上で、インド国内の産業および経済を完全にインドの下へ帰す(Indianize:インド化する)必要があると考えていたことを、Mukherjeeはインド商工会議所連盟の史料をもとにして明らかにしている。しかし、Mukherjeeの研究は資本家階級とイギリス政府ないしインド政府との交渉過程に多くの紙幅が割かれており、その資本家の下で労働者として産業を担ってきた技術者たちの視点は捨象されている。本書は技術者というミクロな視点を扱っている点で、Mukherjeeによる階級分類をさらに洗練させていると考えることができよう。なお、Mukherjeeの定義する「インド化」は、後述する「土着化」(indigenization)の概念も一部包含している。詳しくはAditya Mukherjee, Imperialism, Nationalism, and the Making of the Indian Capitalist Class 1920-1947 (Delhi, 2002)を参照。

*3:著者は主な先行研究としてRajnarayan Chandavarkar, The Origins of Industrial Capitalism in India: Business Strategies and the Working Classes in Bombay, 1900-1940やParimal Ghosh, Colonialism, Class and a History of the Calcutta Jute Millhands 1880-1930等を挙げている。Aparajith Ramnath, The Birth of an Indian Profession: Engineers, Industry, and the State 1900-1947 (New Delhi, 2017), p.16. 本書において直接の言及はないが、先に挙げたMukherjeeの研究も、先述の通り「技術者の役割を見過ごしてきた研究」に該当するであろう。

*4:PWDへの就職を目指すインド人の中には、イギリスに留学してイギリス政府採用口を受験する者も存在し、稀にではあるが内定を得る場合もあったため、インド人がイギリス政府によって採用されることは理論上不可能ではなかった。しかし、当時インドでは技術者教育のノウハウはなく、専門教育を受けられる機関もなかったため、大多数のインド人は独学でインド現地採用に合格するのが関の山であった。Ibid., pp.33-36, 101.

*5:イギリス帝国における帝国紐帯に関しては、近年「ブリティッシュ・ワールド」研究として盛んに議論されている。この概念の先駆的な研究としてCarl Bridge and Kent Fedorowich, The British World: Diaspora, Culture and Identity (London, 2003)が挙げられ、我が国では竹内を中心として発展的に研究が進められている。詳しくは竹内真人編『ブリティッシュ・ワールド―帝国紐帯の諸相―』日本経済評論社、2019年。ICEの地方支部設立からIEI発足までの過程はRamnath, The Birth of an Indian Profession, pp.62, 64-65, 75を参照。

*6:著者によると、ここでの「ジェントルマン」の定義は、①勉学や仕事のみならずスポーツや娯楽にも積極的に打ち込むゼネラリストであること、②仕事に対して責任感を持ち、競争意欲があることの2点であり、PWDの技術者たる者は骨の髄までイギリス的であることが求められた。Ramnath, Ibid., pp.117, 124-127. また、イギリス帝国における「ジェントルマン」の意義を扱った研究としては、P. J. ケイン、A. G. ホプキンズ(竹内幸雄、秋田茂、木畑洋一、旦祐介訳)『ジェントルマン資本主義の帝国』(全2巻)、名古屋大学出版会、1997年が必読書であろう。

*7:ローラット法とはインドにおける犯罪者を陪審員なしで裁判にかけることのできる絶大な権利をインド総督に与えるというもの。これによりインド人は総督による弾圧におびえることとなったが、これに対する抵抗運動がインド現地の治安を悪化させた。バーバラ・D・メトカーフ、トーマス・R・メトカーフ(河野肇訳)『インドの歴史』創土社、2006年、242~243頁。Ramnath, The Birth of an Indian Profession, pp.44, 128.

*8:このうち「効率的」であることに関しては、そもそも何をもってそれを評価するのかが未定義であったが、技術的・非技術的双方の側面でインド人技術者は総じて「非効率的」であり、「忠誠心がない」という烙印を押されていた。また、いくつかの専門誌ではインド人技術者にそもそも技術者としての才能がないことが風刺的に述べられていた。Ibid., pp.159-161.

*9:著者は「対外的要因」(external factors)と呼んでいる。Ibid., pp.171-173. また、著者はPWDと鉄道のインド化の過程を決して同一視しているわけではないことにも注意されたい。Ibid., p.228.

*10:一方で、ハードワークに耐え得る「体力」はPWDや鉄道と同様、JTIでも重要な評価項目であった。Ibid., pp.205-207, 209-212.

*11:PWDや鉄道の「対外的要因」と対比して、「自発的な促進過程」(an internally driven process)と称されている。 Ibid., p.185.

*12:一方で、タタ財閥はビルラ財閥やワルチャンド財閥といった他の有力財閥と異なり、ガンディらの展開した独立運動とは距離を置いていたことも指摘されている。例えば、ビルラ財閥やワルチャンド財閥が1926年に独立機運の高まりとともに「インド商工業会議」を発足させる一方で、タタ財閥はこれに参加しなかった。須貝信一『インド財閥のすべて―躍進するインド経済の原動力―』平凡社、2011年、90~94、134~135頁。これに対して、本書の著者はTISCOが独立運動に積極的に参画しなかった理由として、政府からの経済保護を得るためであったことと、政府がTISCOにとって重要な顧客たり得たことを指摘している。Ramnath, The Birth of an Indian Profession, p.229.

*13:インドの経済ナショナリズムの重要性については、19~20世紀転換期のアジアの工業化に多大な貢献をもたらしたと秋田も指摘している。19世紀末におけるタタ財閥の綿紡績業の発展も、ジャムシェトジーの経済ナショナリズムの思想に由来しているという。秋田茂「19世紀末インド綿紡績業の発展と『アジア間競争』」秋田茂編著『「大分岐」を超えて―アジアから見た19世紀論再考―』ミネルヴァ書房、2018年、55~79頁。

*14:開設から2年目までの間に、実に50%の候補生がカリキュラムを修了できずに脱落している。Ramnath, The Birth of an Indian Profession, p.209.

*15:こうした節約の効果は、第一次世界大戦中の政府からの鉄道レール大量受注に答えることを可能にした。Ibid., pp.200-201.

*16:海外での就業経験は必須ではなかったが、経験のある者はより高い成績のクラスへと割り振られ、補助金や就職支援の点で優遇された。ただし、TISCO就職後の出世に関してはあくまでも自助努力であった。Ibid., pp.215-216.

*17:この論点は最近MajumdarやChibberによって提唱されている「遅れた工業化」(late industrialization)という概念に連なると述べるにとどめている。Ibid., pp.236-237.

*18:横井勝彦「戦後冷戦下のインドにおける航空機産業の自立化」横井勝彦編著『航空機産業と航空戦力の世界的転回』日本経済評論社、2016年、362頁。

*19:木畑によると、植民地が主権を持った国家として独立することを「狭義の脱植民地化」(または政治的脱植民地化)というが、イギリス帝国をはじめとした帝国主義世界体制の文脈で脱植民地化を考える際にはこのような法的な権力の移譲だけでは不十分であるという。そこで、上記のような広義の脱植民地化が定義され得る。なお、文化的側面と精神的側面は半ば同一視されている。木畑洋一『イギリス帝国と帝国主義―比較と関係の視座―』有志舎、2008年、213~215頁。