【書評】井坂理穂・山根聡編著『食から描くインド―近現代の社会変容とアイデンティティ―』春風社、2020年
井坂理穂・山根聡編著『食から描くインド―近現代の社会変容とアイデンティティ―』春風社、2020年、391+iv頁
先ず、大きな皿が一枚配られ、私だけには特にスプーンとフォークが与えられた。これは私一人がこういう風な食事方式圏外の異邦人であって、手でものをつかんで食うことになれていないからである。(中略)さて、その皿に、バサバサの米がたっぷりと山盛りにつけられてしまった。(中略)どこの産の米であれ、それはそれとして味うつもりはできているのであったが、インドの米は、私には、とてもかなわなかった。(中略)それはバサバサであるだけではなくて、私にはほとんどまったく味というものがないと思われたのだ。噛めば、ザリザリと硬質のものが歯にぶつかる。米粒は、いくらか黒みをおびて、そのなかにひどく黒いもの、妙に赤っぽいものなどもまじっている。
その山盛りの米の上へ、にゅうっと腕がのびて来て、どす黄色いカレーと、どす黒いようなどす赤いような羊肉のまじったものがかけられた。これはえらいことになったな、と思っていると、さらにもういちど、今度は深紅色の、見るからに脳の皮から汗が吹き出そうな、たっぷりとした液状トンガラシに浸した肉片が蔽いかぶさって来た。*1
小説家・堀田善衛の名著『インドで考えたこと』からの抜粋である。インドで開催されたアジア作家会議(1956~57年)に出席するための訪印で、彼が目の当たりにしたインド料理は上記のようなものであった。お世辞にも美味しそうな印象は得られず、異国の食というものに対する抵抗がおどろおどろしい表現でなされており、著者の心情をリアルに描き出している。
いきなりネガティブ・キャンペーンから入ってしまったが、評者はインド料理をけなしたいわけではない。インド料理は特段好んで食べる機会はないが、街に繰り出せばインドカレー屋が立ち並んでおり、評者も何度かそうしたお店で食事をしたことがある。食に対して造詣が深いわけではないので、店ごとの違いはいまいちわかりかねるが、悪い思い出はない。店員はナンのおかわりを無料で進めてくれるし、そうして出てきたナンがあまりにも大きかったことから、インドカレー屋はサービス精神旺盛という良い印象すら抱いている。
しかしながら、現地で食べるインド料理と日本で食べるインド料理が同等のものであるとも思っていない。上記の堀田の描写のように、我々の食文化からは許容しがたい食事の環境があるのだろうとは薄々感じているし、逆に宗教的に菜食主義が奨励されるインド側から見ると、我が国の料理も半ば信じられないカルチャーなのではないかという疑念もある。しかしながら、そうした食文化の異同は、単なる地域文化の違いから生じるわけではない。大航海時代以降、世界が一つの社会経済システムに内包されるに伴い、食文化の輸出入も活発に行われるようになった。また、イギリス帝国はインドを植民地として以降、現地の宗教で禁忌とされる飲酒の文化を持ち込み、これが現在もなおインドの社会問題に大きく影を落としている(飲酒の問題は本書でも触れられており、詳しくは後述する)。すなわち、現代の国家間の食文化の異同には、社会経済史的な背景が存在するのである。
本書は序章含む全10編の論考と6つのコラムから構成されており、そのすべてがインドの「食」を媒体として、近現代インドにおける政治・経済・社会といった問題を扱っている論文集である。本書の序章でもあらかじめ断りが入れてあるが、インドの「食文化」を総体的にバランスよく描き出すことを目的とした本ではない。「食」の背景にある人々の自己認識・他者認識、社会の変容を探ることに、本書の目的があるという。我が国においては、「食」から人間社会の変動を描き出す研究は従来にもいくつかみられたものの*2、見かける機会は決して多いとはいえない。ましてや、「インドの食」といわれればなおさらである。このように研究蓄積が少ない中で、本書は文学作品や当時の料理書、回顧録、現地でのフィールドワークなどを史料として、インドの食と社会経済を接続させる挑戦的な試みを行っている。いわば、「食の社会史」とでもいえよう。
以下では、本書の概要を論考ごとに簡単に紹介し、評者の関心から本書の貢献的な特徴を論評する。なお、概要では評者にとって特に印象に残った論考を、各部から1編ずつ取り上げ、多くの紙幅を割いた。すべての論考を詳細に解説できない点はご理解いただきたい。
1.本書の概要
本書の構成は以下の通り。
序章:食から描くインド―近現代の社会変容とアイデンティティ(井坂理穂)
第Ⅰ部 食からみる植民地支配とナショナリズム
第一章:19世紀後半の北インドにおけるムスリム文人と食―郷愁と動揺(山根聡)
第二章:インドのイギリス女性と料理人―植民地支配者たちの食生活(井坂理穂)
第三章:ナショナリズムと台所―20世紀前半のヒンディー語料理書(サウミヤ・グプタ:上田真啓訳)
第四章:現代「インド料理」の肖像―はじまりはチキンティッカー・マサーラーから(山田桂子)
コラム1:中世のサンスクリット料理書(加納和雄)
コラム2:「宗教的マイノリティ」意識と食―近現代インドのパールシー(井坂理穂)
第Ⅱ部 食をめぐる語り
第五章:一口ごとに、故郷に帰る―イギリスの南アジア系移民マイノリティの紡ぐ食の記憶と帰属の物語(浜井祐三子)
第六章:買う・つくる・味わう―現代作家が描く食と女性(小松久恵)
コラム3:スパイス香るインドの食卓(小磯千尋)
コラム4:マハーラーシュトラの家庭料理―プネーのG家の場合(小磯千尋)
第Ⅲ部 変動する社会と食
第七章:もの言う食べ物―テランガーナにおける地域アイデンティティと食政治(山田桂子)
第八章:飲むべきか飲まぬべきか―ベンガルール市でのフィールドワークから(池亀彩)
第九章:ハラール食品とは何か―イスラーム法とグローバル化(小杉泰)
コラム5:日本における「カレー料理」と「インド料理」(山根聡)
コラム6:ジャイナ教の食のスタイルとその背景(上田真啓)
あとがき
上記のように、本書は全三部構成で、テーマごとに様々な視点からの論考が収録されている。全編で少なからず歴史的アプローチが見られるが、特に歴史研究に軸足を置いているのは第Ⅰ部であろう。
第Ⅰ部は、植民地時代から独立直後までを射程としており、支配される/するなかで醸成されてきた自己認識(すなわちナショナリズム)を扱っている。第一章はイギリスから新たな食文化がもたらされた19世紀インド北部を舞台に、ムスリム(インドに暮らすイスラム教徒)が著した当時の文学作品を用いて、変わりゆく食文化に対する戸惑いとムスリムの伝統への郷愁を対比的に描き出している。ムスリムが伝統的なムガル宮廷文化を偲びつつも、イギリスの食文化を受け入れた背景には、ヒンドゥー教との対立が大きくかかわっていた。
第二章は唯一イギリス人の立場からインド社会を描いた論考である。植民地期インドに暮らすイギリス人女性はメムサーヒブと呼ばれ、家庭内ではインド人使用人を取りまとめる家事の監督役であった。19世紀におけるメムサーヒブの料理事情や食への価値観を、当時の家事指南書や料理書をもとに描き出す。
第四章は、問題設定と調査方法が秀逸である。一般的にインドの国民食として知られるチキンティッカー・マサーラーは、近年イギリスとインドでその起源をめぐって論争が展開されている。この事実から、チキンティッカー・マサーラーと極めて類似した料理「バターチキン」*3の起源を探る。チキンティッカー・マサーラーの起源論争には直接立ち入らないものの、バターチキンがいかにしてインドの国民食として受容されていったのかを、現地での聞き取り調査から明らかにする力作である。
評者の関心から、第Ⅰ部で特に興味深かったのは第三章である。第三章は第二章とは対照的に、料理に従事するインド人女性について論じている。4種類のヒンディー語による料理書を史料として、独立前インドにおける女性のナショナリズムが料理の過程を通じて想起されていったことを明らかにしている。そして、そこにはジェンダー的な要素が深く関係していた。20世紀前半当時、料理書は男性によって執筆されたが、台所に立つのは女性であるべきという慣習が根深く存在した。そうした料理書を用いて実際に家事を行う女性たちは、料理書を通してヒンドゥー教由来の菜食主義や台所に適応された浄・不浄の概念、イギリス食文化との比較を学び、家庭を国家に見立て、帰属意識を涵養していった。台所を通じて「ヒンドゥー国家」が女性の中に想像されたのである。
当時のインドでは植民地支配への抵抗から、海外製品に対してボイコットが行われるなど、経済と独立運動は隣り合わせのものであった。すなわち、男性の従事する労働の場はある種の闘争として機能していたため、男性はナショナリズムを想起しやすい環境にあったといえる。一方で女性は、上記のように家庭に留まって家事に従事することを当然視されており、男性に比べて社会的・闘争的な空間にかかわる機会が乏しかった。このように、女性がナショナリズムを涵養し難い環境に置かれている中で、それを可能ならしめたのが「料理する」という役割であった。いわば、ナショナリズムの発生源に「性差」が存在したわけであるが、類似する事例は日本においても見られた*4。また、ベネディクト・アンダーソンは、ナショナリズムを「イメージとして心に描かれた想像の共同体」と称したが、そうした共同体の想像のされ方は一様ではない。時には言語と出版物が共同体の想像に大きく貢献したこともあった*5。これらを考慮すると、独立前インドにおける女性が、「ヒンディー語」の「料理書」を用いてナショナリズムを想起し得たという主張はかなりの説得力を持つように感じられる。
概要に戻ろう。第Ⅱ部は、「食をめぐる語り」と題して、現代の文学作品を手掛かりに食を介した帰属意識や人間関係を扱っている。第Ⅰ部に比べるとやや時代は下り、より現代に近づくが、共通するのはやはりナショナリズムにかかわりの深い議論が展開されている点である。
第六章は第三章と同様、食をめぐるインドの女性を扱っているが、現代インドの女性作家たちによる文学作品を史料としている点で、より現代のジェンダー問題に切り込んで議論が展開されている。料理に携わる女性の姿を「買う」、「つくる」、「味わう」の3つの段階に分けて考察しているが、それぞれの段階で男性との権力差がときに逆転する場面も見られるなど、現代インドの家庭事情が女性目線からリアルに描写されており、興味深い。
同じく現代的な問題に目を向けた点で印象深かったのは、第五章である。第五章はロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)の歴史学者パールヴァティ・ラーマンの回顧録をもとに、南インドからイギリスに渡った移民という立場から食と帰属意識の関係を探る。ラーマンは両親の都合で幼くして南インドからイギリスへと移住したが、その後家庭問題を経て母とともにインドへ戻り、再度イギリスへ渡るという波乱な人生を送っている。彼女の父はインド社会になじめないためにイギリスへ渡ったようだが、食だけはインドの味を忘れられなかった。一方で、ラーマン本人は幼いころからイギリスへ渡ったため、自身の帰属意識をどこにも定められずにいた。しかしながら、2度目のイギリス移住の際に不運にも英連邦移民法による移民排斥運動に巻き込まれる。ここで人種差別体験を経たことによって、ラーマンは自らの中にインドへの帰属意識を発見する。そして、そのインド・アイデンティティをより強めるきっかけとなったのが、それまで母と共同で行ってきた行為、すなわちインド料理を自らの手で作ることであった。
周知のとおり、人種差別問題はBlack Lives Matter (BLM)をはじめとして、昨今熱を帯びている。このような状況で、上記のラーマンのように、被差別体験を通じて帰属意識を発見するという事例は興味深い。実のところ、被差別体験からインドへの帰属意識を強固にするという事例は、20世紀初頭にしばしば見られた。例えば、タタ財閥創始者のJ.N.タタは、当初自身の経営する会社にイギリス女王に因んだ名称を付けるなど親英的な態度が見られたが、イギリス系資本のホテル・レストランにおいて人種を理由とした門前払いを受けたことをきっかけに、反英的思想に転換したことが示唆されている*6。また、同じくインドの巨大財閥であるビルラ・グループの創始者G.D.ビルラについても、ジュートの工業生産参入の契機はイギリス系資本会社のマネージャーに人種差別的な嫌味を言われたことであったという*7。その後もG.D.ビルラはガンディーの独立運動を支援するなど、反英的な活動に邁進していったことが知られている。しかしながら、ラーマンのように幼くして故郷を去り、インドとイギリスのはざまを彷徨い続けた人物にとって、「自分が何者か」を規定することは容易ではなかったであろう。
BLMで取り沙汰されるアフリカ系アメリカ人も、奴隷としてアメリカに連れてこられたアフリカ人を先祖とすることから、ラーマンと同様、自身の帰属を規定することは容易ではないように思われる。しかし、歴史的に見ると、彼らはバスなどの公共空間で居場所を制限されるといった人種差別を受ける中で共産主義と結びつき、白人に対抗するための黒人ナショナリズムを想起させていった*8。彼らの帰属意識は「ナショナル」(国)ではなく「コミュニティ」に向けられたのである。人種的なナショナリズムとインターナショナリズムが互いに排斥しあうことなく結びつくというのは、一見奇妙な光景に映るかもしれないが、政治的な要素と人種の結びつきと考えると、さほど意外性を感じない。ゆえに、第五章で述べられている人種的帰属意識が食によって涵養されたというのは、上記20世紀初頭インドやBLMの例と比べて文化的側面を強調している点で、比較的新たな視座であるといえよう。
第Ⅰ部、第Ⅱ部は多くの論考が人間に着目した、いわば人文的なアプローチが中心に据えられていたが、第Ⅲ部はより社会的な視点からの議論が展開されている。第七章は「食べるサティヤーグラハ」と題して、「食べる」行為が民衆運動化された事例を紹介している。独立以前から民衆運動の多かったインドでは、従来「断食」が権力に対する抗議の形として考えられていた。しかし、アーンドラ・プラデーシュ州からテランガーナ州を分離独立させるための運動の際に、指導者が断食に失敗したことをきっかけとして、民衆は「食べる」行為をアンチテーゼ的に民衆運動に取り入れ始めた。こうした食と政治の化学反応がやがてテランガーナ料理という新たな土着料理を生み出したという。新しい抗議形式と新しい料理が連鎖的に誕生した事例は、食と政治の関係をより密接なものに感じさせる。
第九章は、いまや世界的に存在が認知されつつある「ハラール食品」の広がりと、その意義をグローバル化の中に位置付けている。「ハラール」とはイスラム法に照らして「合法」、「適正」という意味を持つが、「ハラール食品」が何をもって合法となされているかを、イスラム法の食事規定を実際に紐解きながら解説がなされている。また、ハラール食品がなぜ昨今意識されるようになったのかを、グローバル化による外国産食品の流入という観点のみならず、食品産業の現代化という観点からも明らかにしている。
社会問題に着目したという意味で特筆すべきは第八章である。「飲むべきか飲まぬべきか」というタイトルが示唆する通り、現代インドにおける飲酒とそれにまつわる社会問題を扱っている。ヒンドゥー教、イスラム教いずれにおいても飲酒は禁忌とされているが、現代インドにおいて飲酒にまつわる事故や事件は絶えない。例えば、つい最近でもパンジャーブ州において、密造酒を飲んで80人以上が死亡したという事件があった*9。密造酒にメタノールが混在していたことが原因として示唆されているが、こうした事件はインドでは毎年見られるという。
そもそもなぜ密造酒が作られるのか。第八章によると、これには宗教・歴史・政治・経済の問題が複雑に絡み合っている。伝統的にヒンドゥー教社会では、高位のカーストほど戒律を遵守して飲酒を避ける傾向にあり、低位のカーストもこれに倣って飲酒をやめることで、社会的地位を高めようとしてきた。一方で、酒税はイギリス植民地政府にとって貴重な財源であり、イギリス軍の駐留地であったベンガルール(旧名バンガロール)では、特に兵士たちを中心に飲酒の慣習が根付いていた。独立期にはインド全体で禁酒行為が独立運動と密接に結びつく場面もあったが、独立後も植民地時代の財政制度を引き継いだことにより、政府の財源確保の思惑と宗教的戒律の衝突は根深く残存することとなった。このような矛盾を抱えた状況で、道徳的な立場を取りつつも財政的要求を満たすために妥協案として導入されたのが、労働者階級向けの安価な蒸留酒「アラック」の販売を禁止し、より付加価値のつけられた二次蒸留酒「インド製外国酒」(Indian-made foreign liquor:IMFL)を合法とすることであった。
アラックの違法化は低所得者層の飲酒機会を奪うことと同義であった。このことから、貧困層の多く住むスラム街を中心として密造酒の製造が活発になり始める。ベンガルールでは2007年にサトウキビから蒸留されたアラックが違法化されたが、翌年2008年には180人以上の現地民が密造酒を飲んで亡くなるという事件が起きた。アラックを違法化したことがこの事件を引き起こしたのだという厳しい批判も政府に投げかけられた。以上が、インドで頻発する密造酒をめぐる事件の背景である。本章はこうした背景を念頭に置き、現代のインドにおける酒場を著者自らの足で訪れ、プロパガンダやジェンダー、階級格差といった様々な議論に接近を試みている。著者によるフィールドワークをもとに紡がれるルポルタージュは、インドの飲酒をめぐる「いま」をリアルに映し出す。現代インド社会の縮図ともいえる論考であった。
2.本書の特徴
上記の概要からも明らかなように、「食」を媒体としつつもナショナリズムやジェンダー論、政治、社会運動といった様々な議論が展開されているのが本書の特徴である。この意味で、冒頭に述べられている本書の目的(「食」を媒体として人々の自己認識・他者認識、社会の変容を探ること)は概ね網羅されているように感じる。特に評者が強調しておきたいのは、「食」というトピックが社会科学研究において果たす役割である。例えば、バターチキンの発明・受容(第三章)やテランガーナ料理の誕生(第七章)は土着的現象であり、地域的特色の理解のもとにこれらの議論は成り立つ。ムスリムのイギリス食文化受容の過程(第一章)も、印パ分離独立とのかかわりを鑑みると、地域的な要素を多分に内包しているといえよう。すなわち、「食」は文化的な役割を担う。
周知のごとく、インドは20世紀半ばまでイギリスによる植民地支配下にあった。「食」を媒体とした本書でも、イギリスの植民地支配に言及された論考は多い(第一~五章、第八章)。多くの研究が指摘しているように、イギリス帝国主義が現代の発展途上国に残してきた影響は大きい。インドの「食」という文化的側面に着目した際にも、そのことに変わりはないということは本書が指し示している通りである。すなわち、本書は帝国史研究の文化的側面への貢献が期待され得る。
帝国史研究において、文化的側面に着目したものは近年隆盛を極めている。従来の政策決定者(すなわちエリート)に着目した研究とは異なる、非エリートの大衆をとらえようとした「下からの歴史」に準ずるものである*10。平田はこうした帝国史研究の文化的アプローチの一例として、ロバート・ロス『衣服のグローバル・ヒストリー』を挙げている。衣服を完成させる工程は従来の経済史研究で議論されてきたものの、衣服のグローバルな流通や記号・象徴的な役割は、非経済史的分野として言及が乏しかったという*11。本書においても、ハラール食品のグローバル化の意義(第九章)や、テランガーナ料理が果たす抗議運動の表象としての役割(第七章)など、上記のロスの研究と類似する観点からの研究が散見される。
木畑は帝国主義の最後の段階、すなわち脱植民地化の時代を議論する際に、政治的側面のみならず、経済的・文化的側面からの自立・独立にも目を向ける必要があると述べている*12。従来の文化的側面からの帝国史研究は、文学、言語、芸術、宗教といった観点からのものが存在したが*13、食文化に着目したものは極めて稀である。「食」を媒体としながらも、植民地支配との関連で政治・経済・社会の問題に言及がある本書は、帝国史研究や脱植民地化研究のポテンシャルを大いに秘めているといえよう。一方で、史料制約的な障壁もないわけではない。本書に引用されている文献を見ると、純粋に「インドの食」に着目した社会経済史的研究は、海外でもさほど多くないことがわかる。文学作品や料理書、フィールドワーク等の一次史料が参考文献に占める割合が大きいことから、現状はオーラル・ヒストリーなどの様々な方法論を介しつつ、先行研究を地道に増やしていく必要があると考えられる*14。
ところで、冒頭で引用した堀田は、自身の経験したインド食に対して痛烈に忌避感を示しているものの、インド食全般を否定していたわけではない。
しかし一言いっておかなければならない。これは、つまり私がこの特定の食事についてダメだったというだけのはなしなのであって、私の例でもって一般化することはできないのである。他日御馳走になった鶏のカラアゲに赤いトンガラシの液をぬりつけた料理は、とてもうまそうに見えた。見えた、というのは、ここでも運悪く私は高熱を出していてダメだった。*15
悲惨な体験から一変して、「うまそう」な料理に出会えたにもかかわらず、それにありつけなかったあたりが余計彼のインド食の経験にほろ苦さを与えているようにも感じる。
それはともかく、本書には議論の過程でインド料理を具体的に紹介する場面もある。いずれも日本ではあまり見かける機会のない料理だが、その詳細なレシピや調理法を読んでいると、不思議と食欲がわいてくる。特にコラムには、純粋にインド料理の紹介に力を入れたものも収載されている(コラム3、4等)。インド料理が人口に膾炙することを狙って、一般書のような感覚で読み進められるのも本書の美点であろう。
参考文献
・Kelly, Robin D.G., Race Rebels: Culture, Politics, and the Black Working Class (New York, Kindle Edition, 1996).
Race Rebels: Culture, Politics, And The Black Working Class (English Edition)
- 作者:Kelley, Robin
- 発売日: 1996/06/01
- メディア: Kindle版
・Kudaisya, Medha M., The Life and Times of G.D. Birla (New Delhi, Paperback Edition, 2006).
The Life And Times of G. D. Birla (Oxford India Paperbacks)
- 作者:Kudaisya, Medha M.
- 発売日: 2006/08/17
- メディア: ペーパーバック
・ベネディクト・アンダーソン(白石隆、白石さや訳)『想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行―』書籍工房早山、2007年。
・井坂理穂、山根聡編著『食から描くインド―近現代の社会変容とアイデンティティ―』春風社、2020年。
本書。
・小野塚知二「産業革命がイギリス料理を「まずく」した」『文藝春秋SPECIAL』2017年季刊秋号「世界近現代史入門」、2017年8月、62~67頁。
脚注に示した小野塚のHPから閲覧可能。
・小野塚知二「書評 藤原辰史著『ナチスのキッチン―「食べること」の環境史―』水声社、2012年、429+21頁」『歴史と経済』第58巻第2号、2016年1月、48~50頁。
・木畑洋一『イギリス帝国と帝国主義―比較と関係の視座―』有志舎、2008年。
・吉良智子「戦後日本の対外的文化戦略と人形」『千葉大学人文公共学研究論集』第40巻、2020年、42~57頁。
・エドワード・W・サイード(今沢紀子訳)『オリエンタリズム(上下巻)』平凡社、1993年。
・須貝信一『インド財閥のすべて―躍進するインド経済の原動力―』平凡社、2011年。
・竹内真人「宗教と帝国の関係史―福音主義と自由主義的帝国主義―」『社会経済史学』第80巻第4号、2015年2月、37~52頁。
・竹内幸雄「帝国主義・帝国論争の百年史」『社会経済史学』第80巻第4号、2015年2月、3~20頁。
・平田雅博「帝国論の形成と展開―文化と思想の観点から―」『社会経済史学』第80巻第4号、2015年2月、21~36頁。
・藤原辰史『ナチスのキッチン―「食べること」の環境史』共和国、2016年。
・ジョン・M・マッケンジー(平田雅博訳)『大英帝国のオリエンタリズム―歴史・理論・諸芸術―』ミネルヴァ書房、2001年。
*1:堀田善衛『インドで考えたこと』岩波書店、1957年、135~137頁。傍点は原著による。
*2:例えば、藤原辰史『ナチスのキッチン―「食べること」の環境史』共和国、2016年や、小野塚知二「産業革命がイギリス料理を「まずく」した」『文藝春秋SPECIAL』2017年季刊秋号「世界近現代史入門」、2017年8月、62~67頁などがある。イギリス経済史を専門とする小野塚は、他にも多数の書籍でイギリス料理と産業革命に関する論考を寄稿している。詳しくは小野塚のHP(http://www.onozukat.e.u-tokyo.ac.jp/works_j.htm)を参照されたい。
*3:両者の違いは単純にいうと骨があるかないかだけである。チキンティッカー・マサーラーが骨なし肉(チキンティッカー)を使って作られるのに対し、バターチキンは骨付き肉(タンドゥーリーチキン)を使う。どちらもタンドゥール窯で焼いた肉に、トマトとクリームをベースにしたグレービーソースをかけるという工程は全く同じである。
*4:例えば、明治期以降の日本において、男性は生産活動や兵役によって国民化されるのに対し、女性は家庭内の家事育児を通じて国家に統合されていった。また育児の過程では人形などを用いたままごとによって、女性のナショナリズムが女児らに教化されていったという。吉良智子「戦後日本の対外的文化戦略と人形」『千葉大学人文公共学研究論集』第40巻、2020年、43頁。
*5:土着の言語(例えば西洋では、かつて唯一聖書を著したラテン語以外のすべての言語がこれに当たった)によって出版物が著されるようになったことで、出版物を読める層が急速に拡大し、そうした新しい読者層は自己と他者を関係づける(すなわち、共同体を想像する)ことができるようになった。いわゆる「出版資本主義」という概念である。詳しくは、ベネディクト・アンダーソン(白石隆、白石さや訳)『想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行―』書籍工房早山、2007年、32~64頁。
*6:須貝信一『インド財閥のすべて―躍進するインド経済の原動力―』平凡社、2011年、89~94頁。
*7:Kudaisya, Medha M., The Life and Times of G.D. Birla (New Delhi, Paperback Edition, 2006), pp.46-47.
*8:Kelly, Robin D.G., Race Rebels: Culture, Politics, and the Black Working Class (New York, Kindle Edition, 1994), Chapter 3 (pp.55-76), Chapter 5 (pp.103-122).
*9:BBC News, ‘India toxic alcohol: Dozens die in Punjab poisoning’ available at https://www.bbc.com/news/world-asia-india-53624507 (accessed 7 August 2020).
*10:竹内幸雄「帝国主義・帝国論争の百年史」『社会経済史学』第80巻第4号、2015年2月、20頁。
*11:平田雅博「帝国論の形成と展開―文化と思想の観点から―」『社会経済史学』第80巻第4号、2015年2月、35頁。
*12:政治的脱植民地化とは、単なる法権力の移転を指す。これを木畑は「狭義の脱植民地化」と称する一方で、上記のような経済的・文化的側面での自立を含めた脱植民地化を「広義の脱植民地化」と定義している。木畑洋一『イギリス帝国と帝国主義―比較と関係の視座―』有志舎、2008年、213~215頁。
*13:文学と言語に関しては、エドワード・W・サイード(今沢紀子訳)『オリエンタリズム(上下巻)』平凡社、1993年。芸術に関しては、先のサイードを批判的に踏襲したジョン・M・マッケンジー(平田雅博訳)『大英帝国のオリエンタリズム―歴史・理論・諸芸術―』ミネルヴァ書房、2001年。宗教に関しては、竹内真人「宗教と帝国の関係史―福音主義と自由主義的帝国主義―」『社会経済史学』第80巻第4号、2015年2月、37~52頁。
*14:事実、小野塚も食べ物は食べた途端にこの世から消えてしまうという性質上、食文化の歴史研究は史料的・方法的な制約が大きく、学問的な成果は未開拓であると述べている。小野塚知二「書評 藤原辰史著『ナチスのキッチン―「食べること」の環境史―』」『歴史と経済』第58巻第2号、2016年1月、48頁。
*15:堀田『インドで考えたこと』、139頁。