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【本の感想】藤野裕子『民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代』中央公論新社、2020年

藤野裕子『民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代』中央公論新社、2020年、vi+220頁

民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代 (中公新書)
 

  近代日本の民衆史をご専門とされており、研究活動のみならずツイキャス「真夜中の補講」などネット上でも精力的に歴史学の普及に努めていらっしゃる藤野先生が、今夏に新書を刊行されるということで、発刊前から個人的に非常に期待していた書籍であった。結果、その期待を余裕で上回るほどにおもしろい内容であった。名もなき民衆を分析対象とする歴史学の方法は、いわゆる「下からの歴史」と呼ばれるが、このロジックをもとに民衆の暴動とそれを取り巻く環境を丹念に描き出しており、明快な論理展開や余念のない史料批判はとても勉強になった。

 また、これも個人的な話になるが、最近は学生時代にあまり勉強してこなかった日本史に関心を向け、日本の資本主義発展や帝国史、社会史を牛歩ながら少しずつ勉強している。藤野先生の既刊『都市と暴動の民衆史』もタイトルを拝聴したときから気になってはいたのだが、専門書の価格帯というのは容易に手が出るものではなく、なかなか目を通せないでいた(藤野先生には申し訳ないです)。そんなときに、藤野先生の研究が新書で読めるというのは、まさに私にとって「朗報」以外の何物でもなかった。

 本書はタイトルの通り、歴史的に民衆が行使してきた暴力を媒体として近代日本を描き出す。暴力といっても、個人間の喧嘩から国家間の戦争まで様々考えられ得るが、本書が扱うのは幕末の「新政反対一揆」、19世紀末の「秩父事件」、日露戦争終戦後の「日比谷焼き打ち事件」、関東大震災時の「朝鮮人虐殺」という4つの事件である。事件を扱うからといって、F.ブローデルのいう「歴史の表層」*1としての政治史・事件史にその分析を限定しているわけではない。むしろ逆で、これら4つの事件の背景にはどのような社会・経済(歴史の中層)的な問題があったのかを考えるべきと著者は訴えている。当時の民衆が暴力行使に至った論理を、当時の社会状況から読み解いていくというわけである。ちなみに、若干ながら地理的な議論(歴史の深層)も展開されている。

 全編を通してキーとなる概念は、マックス・ヴェーバーの国家の暴力の「正統性」(レジティマシー)である。簡単に説明すると、近代国家は軍隊や警察といった暴力を行使するための正統性を有するという考え方である*2。この近代国家による暴力の正統性が時代が進むとともに強められていく一方で、民衆の暴力の論理が如何なる変遷をたどってきたのかが見ものである。そこには、「国家vs民衆」という単純な構図のみならず、被差別部落朝鮮人といった国家権力以外に向けられる暴力も存在した。

 以下、本書のあらすじを紹介するとともにその論理を見て行こう。

 

 本書の構成

 はしがき

 序章:近世日本の民衆暴力

 第1章:新政反対一揆―近代化政策への反発

 第2章:秩父事件

 第3章:都市暴動、デモクラシー、ナショナリズム

 第4章:関東大震災時の朝鮮人虐殺

 第5章:民衆にとっての朝鮮人虐殺の論理

 むすび

 あとがき

 

1.近世までの一揆(百姓一揆世直し一揆)

 本書の議論は近世、実に豊臣秀吉が天下統一を成し遂げたところから始まる。近代以前の民衆暴力といえば、一揆と呼ばれる農民による蜂起が考えられよう。そして、一揆というと現代を生きる我々にはあまりなじみがないことから、「野蛮」といったイメージを抱く人もいるかもしれない。ところが、そうしたイメージとは異なり、実は近世の民衆一揆には作法(ルール)が存在した。

 豊臣秀吉の治世において必ずと言ってもよいほど語られるのが刀狩令であるが、これはすべての武器を百姓から没収したわけではない。兵農分離を明らかにするために百姓の帯刀権武装権を規制することが第一の目的であった。したがって、刀狩後にも村には多くの武具が残されていた。村に武器が残されているのであれば、村人にはいつでも蜂起のチャンスや手段があるはずだが、当時の百姓一揆は「正当」な行為と「不当」な行為が明確に分けられており、「不当」と呼ばれる行為でも団体交渉(徒党)やデモ運動(強訴)、ストライキ(逃散)に留まるなど、一揆に武器が持ち出されることはなかった。一揆に暴力性は見られなかったのである。

 これは仁政イデオロギーという概念から説明できる。領主は仁政(情け深い政治)を村人に施し、百姓はそれに応えてきちんと年貢を納める。そうした持ちつ持たれつの相互依存関係が暗黙に存在しており、百姓は百姓らしく身分相応の格好で、武器を持ち出さずに一揆を行うことで、領主に仁政を求めることの正統性を示したのだという。

 しかし、18世紀末~19世紀初頭になると上記のような一揆のルールから逸脱した行為が見られ始める。放火などの暴力行為である。当時の日本は江戸時代、商品経済が発達し、地方と都市における経済格差が徐々に見られ始めた時期であった。豊臣に続いて天下統一を成し遂げた徳川幕府は、田沼意次重商主義政策の下、大都市中心の経済政策にシフトしており、地方農村の救済にまで手が回らなくなっていた。すなわち、地方農村は幕府の仁政の恩恵を受けられない状態にあった。仁政イデオロギーが機能不全に陥っていたのである。

 そうなると、地方の百姓にとっては一揆の「ルール」を守る動機もない。やがて幕末になると、地方・都市間の格差がますます拡大する一方で、百姓たちの一揆もますます過激になっていった。武器の持ち出し、放火等、かつて見られた一揆の「ルール」はもはや崩壊し、要求の方向性も百姓から領主にではなく、民衆(貧農、小作人、日雇い労働者)から村落上層部、あるいは都市の豪商へと向けられるようになった。「世直し」の考え方に基づく一揆が展開されたのである。

 ところで、先に述べた江戸時代における商品経済の発達は、勤勉に労働にいそしみ、質素・倹約に務める「通俗道徳」という思想に支えられていたといわれている。まるでマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』と類似する経済発展の現象が、日本においても見られたのである。特に農村における通俗道徳の浸透は、二宮尊徳の活動や書物に負うところが大きく、本書でもその重要性は指摘されている。また、寺西によると、石田梅岩の書物に影響を受けた武士階級にも通俗道徳の思想は浸透しており、さらに仏教の易行化等の要因が重なった結果、日本は江戸時代において飛躍的な経済発展を遂げたといわれている*3

 しかしながら、現実的には時代が下るにつれて一揆のルールは形骸化し、民衆による暴力行為が散見されるようになっていった。その背景には通俗道徳に収まり切れなかった民衆の存在があった。一般的に通俗道徳を涵養したのは農村の指導者層といわれており、民衆の多くは逆に「遊び日」と呼ばれる祝祭日を勝手に増加させていき、勤勉とはかけ離れた生活態度を見せていた。すなわち、寺西の指摘する通俗道徳の浸透には、階級間格差が存在したのである。都市との経済格差に苦しむ彼らの心にあったのは「厳しい現実から解放されたい」という刹那的な欲求。楽しいことだけを考えていたいという刹那的な生き方への願望こそが、幕末期に見られた日常では不可能な要求を躍りで表現する「ええじゃないか」につながったという。

 ちなみに、世直し一揆はその暴力性から、もはや「悪党」として認識されたが、これを鎮圧したのは武士ではなく農兵であった。百姓の暴力を制御するためのプログラム、すなわち国家の暴力の正統性は幕末期にはいまだ不在であったことがわかる。

 

2.新政反対一揆

 1867年、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権を返上(いわゆる大政奉還)すると、明治時代の幕が上がり、新政府による近代化政策が始まる。周知のとおり、新政府の近代化政策とは西洋化政策に他ならない。黒船来航のショックとそれに伴う日米和親条約の悲劇から、日本が文明化した国であることを世界(=欧米)に知らしめる必要があった。欧米において「野蛮」とみなされる行為や制度が続々と禁止されたのである。具体的には、身分制改革、徴兵制、地租改正、学校教育、違式詿違 *4など様々な改革がなされたが、これらは民衆からすれば従来の「当たり前」の破壊に他ならなかった。例えば、学校教育の導入は農村における若い労働力の簒奪として認識されたし、いわゆる「穢多」「非人」身分を撤廃した身分制改革は、民衆には賤民の解放として理解された。これらの改革によって、民衆は西洋文化を「自らの生活を脅かすもの」として認識することとなる。そうした心性から、新政府の政策に反発して起こった一揆が「新政反対一揆」である。

 新しい文化の導入は「異人」に対する忌避感を示すきっかけとなった。特筆されているのは、先に挙げた「穢多」「非人」身分の撤廃である。穢多身分とは、死牛馬の処理、皮革の精製、刑吏・治安維持、清掃などの「汚れ仕事」を政府から一任されていた身分であり、ちょうどインドのカースト制における「不可触民」のような位置づけであろう*5。実のところ、新政府はこうした身分の撤廃を「解放」とは認識しておらず、彼らの所有する土地から免除されていた税を取り立てたいという財政的な観点から身分制改革を実施したという。しかし、賤民身分撤廃後まもなく、これらの元穢多身分が従来立ち入りを禁じられていた銭湯や祭りの現場に現れ始めたことで、多くの民衆は身分制改革を賤民の「解放」と理解した。民衆は元穢多身分を「不遜」「無礼」と感じ、自らの特権を維持するために、これら被差別部落民を「異人」と重ねて暴力行為に走ったのである。

 従来の生活を破壊する新政府の西洋化政策に反発することと、自階級の特権を守るために被差別部落民を迫害することは、どちらも自分たちが生きてきた世界を守るという意味で、民衆にとって矛盾する心性ではなかった。西洋化政策によりイメージされた「異人」に対する脅威は、彼らの過激な暴力性を目覚めさせた。

 一方で、新政府は当時、軍隊と警察という暴力装置の整備に努めてもいた。新政反対一揆の鎮圧行動は実弾を用いた極めて暴力的な形を取ったし、それは江戸時代の「あるべき領主の姿」とはかけ離れたものであった。国家の暴力の正統性が徐々に形成されつつあったのである。しかしながら、警察や軍隊だけでは新政反対一揆は鎮圧に至らないことが多く、臨時募兵に頼らざるを得ないこともしばしばであった。この当時はまだ近代国家としての暴力装置が十分に機能していなかったことを示すとともに、新政反対一揆が確実に新政府の足元を揺るがす存在であったといえよう。

 

3.秩父事件

 秩父事件1884年11月に起こった埼玉は秩父地方の農民たちによる裁判所・警察署等への襲撃事件である。新政反対一揆が1870年代に頻発した出来事であるとして、そこから10年ほど時代を下ったわけであるが、この二つの暴動はある程度の連続性を持っていたといえる。というのも、秩父事件の動機は、借金の10年据え置きと40年賦返済、学校の3年休校、減税といった世直し一揆と類するものであったためである。首謀者は「困民党」または「貧民党」と呼ばれる秩父地方の農民たちで、その中心的メンバーの中には当時自由民権運動を推進していた自由党の党員が含まれていた。

 自由民権運動の出現は当時の民衆の困窮と表裏一体であった。1877年、西南戦争を鎮圧するために政府は莫大な戦費を投じ、数年後日本は激しいインフレに襲われた。この物価上昇を収めるために、当時の大蔵卿・松方正義は緊縮財政を強いることで、デフレ政策を推進した。いわゆる松方デフレである。こうした短期での激しいインフレとデフレは、従来とは比べ物にならない景気の振れ幅を生じさせ、農民の生業を半ば崩壊させたという。人為的に作り出された短期間におけるインフレとデフレに、農民は対応できなかったのである。また、西南戦争の鎮圧によって政府の暴力の正統性が民衆にも認識され始め、人々は権力に対する実力行使が意味をなさないことを理解していた。そこで台頭したのが、言論活動による政府批判であった。自由民権運動はこうした背景から生じた対権力運動であった。

 自由民権運動では世直し一揆と同様、ユートピアを求める願望のもと、政府の弾圧を掻い潜って権力の転覆を図る様々な言論活動が展開された。その最も大きな成果は、周知のとおり政府に国会開設を認めさせたことであろう。国会開設という大義を果たし、民権運動家が採った次なる策は、政党の結成であった。こうして設立されたのが、板垣退助率いる自由党と、大隈重信率いる立憲改進党である。自由党の党員には秩父事件に参加した人間も少なからず存在した。このことから、自由民権運動秩父事件の関連性を指摘する研究は多いという。しかし一方で、秩父事件の動機に目を向けると、借金返済の猶予や学校休校など、自由民権運動が目指した「政治の近代化」とのかかわりはむしろ薄い。では、秩父事件自由党員がかかわっていたのは単なる偶然だったのであろうか?

 その答えは、当時の農民が自由党を如何なるものとして認識していたかを理解することによって見えてくる。秩父事件に関与した多くの農民にとって、板垣退助率いる自由党は目の前の生活苦を一掃して安楽をもたらしてくれる存在であった。徴兵制や学校を廃止し、租税を軽減し、借金をなかったことにしてくれる。そうしたある種のメシア的存在として自由党は理解されていたのである。

 しかしながら、疑問はもう一つある。自由民権運動には暴力的な動機が薄い点である。先に述べたように、自由民権運動は権力に対する暴力による抵抗が不可能であるために生まれた言論活動であった。秩父事件を民衆が自由民権運動という言論活動に接触して初めて生じた暴力行為だとするのであれば、民衆の暴力的側面と自由民権運動の非暴力的側面の溝を埋めなければならない。

 これは、蜂起が政府に対する抵抗の最終手段であったこととして理解できる。秩父困民党はもともと蜂起の直前まで政府と個別的に交渉を重ねており、リーダーである田代栄助はむしろ何度も蜂起を延期するよう農民たちに主張していた。西南戦争における国家の徹底的な武力行使の経験から、国家権力に対する蜂起はリーダー層にとって結果の見えた手段であった。また、蜂起してももはや仁政は施されないこともリーダー層は理解していた。ところが、その他大勢の民衆は、こうしたリーダー層の憂慮を超えて高利貸しの打ちこわしに踏み切ってしまう。民衆の生活が成り立たなくなるほどに富を集中させていた高利貸しには、民衆から激しい憎悪が向けられていた。民衆の暴力的エネルギーの爆発は時間の問題だったのである。

 すなわち、秩父事件当時の農民は世直し一揆と同様の開放願望を有しており、その実現を自由民権運動を主導する自由党に見出していた。一方で、自由民権運動は権力に対する暴力行為が意味をなさないとわかったことから生じた言論活動であった。秩父困民党に在籍していた自由党員やリーダー層は蜂起による権力への主張が無駄な結果に終わることを十分に理解していたが、困窮する民衆の暴力行為への衝動は爆発寸前であった。このことから、秩父事件世直し一揆の動機と自由民権運動に対する民衆の幻想が重なり合って起こった暴力的現象として理解できよう。

 近世において、世直し一揆を実行した百姓たちが通俗道徳に収まり切れなかった人々であることは先に述べたとおりである。秩父事件に関与した民衆も、世直しの動機を持ちつつ、リーダー層の静止を振り切って暴力行為に走ってしまったという点で、通俗道徳から漏れた人々であるといえよう。ヴェーバーの規定する国家の暴力の正統性が徐々に確立されつつある中で、通俗道徳に収まり切れない人々は存続し続けたのである。したがって、ここから先の議論は「通俗道徳」も一つの重要なキーワードとなる。

 

4.日比谷焼き打ち事件

 次なる民衆暴力の分析対象は日比谷焼き打ち事件。日比谷焼き打ち事件は、1905年9月5日、日比谷公園にて行われた日露戦争講和条約であるポーツマス条約に反対する国民大会をきっかけに起こったという。その規模は参加者2~3万人、都心15区(当時)に及ぶなど、これまで見てきた事件とは比べ物にならないほど大きく、一揆という言葉では片づけられないとして、本書ではこの事件を「暴動」と定義している。何度も述べているように、近世の「一揆」にはもともと「ルール」があった。しかし、日比谷焼き打ち事件は権力者からは明らかにネガティブな行為と捉えられるため、民衆がそうした行動を取った論理を探るためにも、一揆とは区別されている。被害に遭ったのは警察署や派出所、キリスト教会。手段は襲撃や放火であった。また、日比谷焼き打ち事件は民衆の政治的覚醒という意味で大正デモクラシーの出発点と認識されるのが通説だが、警察署・教会への襲撃や放火は果たしてデモクラシーと呼べるのであろうか?というのが本書で掲げられている論点である。

 日比谷焼き打ち事件における疑問点は以下の2点がある。1つは、放火が実は無差別ではなかったこと。派出所を襲撃する際に、近隣の民家に火が燃え移る危険性がある場合には、派出所内の機材を破壊したのち、外の大通りまで持ち出してから火をつけたという。実行犯たちは近隣住民と最低限の合意が採れる範囲で暴力行為に及んでいたらしい。もう1つの疑問点は、焼き打ちの勢力が拡大するにつれて、もともと国民大会に参加していなかった人々も焼き打ちに参加し始めたことである。途中参加者は焼き打ちのうわさを聞きつけ、野次馬のごとく見物に行き、集団についていくうちに積極的に参加するようになったという。しかも、途中離脱者も同じくらい多く、焼き打ち実行犯はリレー形式で徐々に入れ替わりながら移動していったという。

 なぜこのような大規模かつ奇妙な内実の焼き打ちが起きたのか。その理由は、新聞・国民大会主催者・労働者という3つの視点から考えられる。まず、新聞報道の側面からは、日露戦争終戦後の厭戦ムードがカギとなる。戦時中、新聞各紙は戦勝確実という報道を繰り返し行っていた。にもかかわらず、講和条約で提示された内容は決してそれまでの犠牲に見合うものではなかった。こうした経緯から、新聞各紙の投書欄には「二度と戦争に行かない/行かせない」という声が相次いだ。ただし、これらの投書は民衆が書いたという保証はなく、編集者が書いたものであったり、編集者が恣意的に選んだものであったりもするので、クリティカルな史料とはなり得ないとも本書では述べられている。史料批判の観点から、極めて重要な指摘であろう。しかしながら、複数の新聞に同じような投書が掲載されていたことから、ある程度は巷間に立ち込める厭戦ムードを反映していたと考えてもよいだろう。

 一方で、国民大会主催者は上記のような民衆の厭戦ムードはあまり気にしていなかったようである。むしろ主催者たちは、政治は国民の立場で行われるべきと表明しながらも、対外膨張を重視する帝国主義的集団であったことが指摘されている。大した補償もない屈辱的な講和条約に甘んじるくらいならば、戦争を継続した方がマシだというわけである。しかし、国民大会当日、職人や給仕といった主催者が予測し得なかった職分の人々まで日比谷公園に集まったことから、主催者たちは少なからず困惑した。こうした「予想外」の参加者たちも交えて、主催者の思惑とは異なる論理で民衆は大会終了後に焼き打ちを実行することとなる。

 当時の民衆に目を向けてみると、焼き打ち参加者には圧倒的に男性が多かった。男性労働者は不安定な生活環境に晒されていたためである。その背景には、近代の資本主義的工業発展がある。近代化以前の工業は職人による徒弟制のもとに成り立っていたが、資本主義的生産システムの発展によって職人層は解体、多くの徒弟が工場労働者や日雇い労働者へと転身せざるを得なくなった。そんな中でも都市の工場は大規模に雇用を募っており、地元で農業を継げない長男以外の男子は、将来的な自営の開業を夢見て上京するなどした。しかしながら、当時の工場労働者は日雇い労働者と並んで、極めて厳しい生活水準に悩まされた。工場に就職した若者を待ち受けていたのは、先輩労働者による刺青・酒・博打の強要。一度工場労働者となると、刹那的な生活を強制され、そこから抜け出せないほどの困窮が続いたのである。いずれ自営業を営むという当初の目標も、それこそ夢物語であった。

 一方で、工場労働者の刺青・酒・博打といった豪傑なライフスタイルは、緩やかな紐帯を作り出しもした。彼らの生きる世界は、些細なトラブルから殴り合いに発展したとしても、すぐに酒を飲みかわし、仲直りするような世界であった。身寄りのないまま都会に出てきた若者でもそれなりに受け入れてもらえるような環境が、そこにはあったのである。また、そうした「荒っぽい」とも「男らしい」とも称されるふるまいは、社会的地位や学歴、経済力がなくとも獲得できるものと認識されており、非熟練労働者独自の価値観であった。「男らしさ」を発揮できる者は仲間の間でも一目置かれ、労働者を取りまとめる地位につながったという。近代に普及したといわれる通俗道徳とは真逆の価値観であることがわかるであろう。当時の工場労働者はその厳しい生活水準から、通俗道徳の価値観に則った行為をいくら積み重ねても、将来的に自営業を営むという夢には決して到達できなかった。だからこそ、富や学といった一般的な価値観とは異なる価値観が共有されていたのである。すなわち、20世紀初頭の工場労働者も世直し一揆勢と同様、通俗道徳に収まり切れなかった人々であった。

 国民大会に集まった「主催者の予想外」の人々は、こうした独自の価値観とエネルギーを秘めた労働者であった。彼らが警察=国家権力という共通の敵を見つけたことによって、日頃の鬱憤を爆発させ、次から次に焼き打ちが実行されていった。

 日比谷焼き打ち事件により暴動は全国的に飛び火、一度きりでは終わらず、後日何度も政治集会の後に暴動が起きている。政府はそのたびに鎮圧に苦労したようだが、一方でそれは国家の暴力装置が再規定される機会にもなった。例えば、警察権力への批判的知見から、警察とは別に民間の自警組織を各市町村に設置させた。巡邏夫・自衛警務本部などと呼ばれるものがそれである。そもそも焼き打ちがヒートアップした原因は、先に警官がサーベルを抜いて民衆を切りつけたことにあるといわれている。このことから、警察とは異なる自衛組織を形成する機運が官民両側で高まっており、また警察もこれまでの強権的な取り締まりを控え、民衆の合意を得ながら活動するようになっていった。民衆が警察になり、警察が民衆に目線を合わせる、いわば「民衆の警察化・警察の民衆化」が実施されたのである。

 さらに、日露戦争から帰還後、なかなか日常に適応できないでいた帰還兵を社会復帰させるプログラムも発足した。帝国在郷軍人会と称した自警組織を作り、帰還兵に村落での役割を与えた。在郷軍人会は兵役者の育成も兼ねており、「民衆の警察化」の一種といえよう。このように、日比谷焼き打ち事件を経て、警察・軍隊という国家の暴力装置を地域社会の内部に浸透させるような再統合が図られたのである。地域に恒常的に存在する暴力装置が如何なる問題を招いたかは、次なる事件、関東大震災時の朝鮮人虐殺を見ると明らかになる。

 

5.関東大震災時の朝鮮人虐殺

 1923年9月1日、マグニチュード6.9の大地震南関東を襲った。いわゆる関東大震災である。大地震の混乱の最中、「朝鮮人が暴動や放火を起こした」といった様々な言われなきデマが横行し、同時多発的に各地で朝鮮人が虐殺された。このデマの発生源については、地理的・勢力的な側面から様々な研究が積み重ねられてきたが、特定には至っていない。ただ1つ、膨大な先行研究で共通する見解は、警察や政府といった公権力が朝鮮人に関する流言・誤認情報を積極的に流していたということである。なぜこのようなデマが流れるに至ったのだろうか?

 背景にあるのは、大日本帝国による朝鮮の植民地化と、それに対する朝鮮側の反発である。1910年8月、韓国併合条約により日本は朝鮮を植民地支配下に収め、その土地や慣習、宗教を収奪する武断政治を決行した。時代は下って1919年、3月1日に独立宣言が公表されたことに伴い、朝鮮全土で独立運動が開始された。いわゆる三・一独立運動である。当初は万歳を唱える程度の示威運動であったが、やがて鍬や鋤を持ち出した暴力行為も散見されるようになった。ただし、窃盗などは禁止されており、ここでも暴動に一定のルールが存在した。対する日本政府は武力でもってこの運動を鎮圧。その一方で、統治政策は武断統治から文化統治に方針転換を図った。ただし、ここでの文化統治とは俗にいう同化政策であった。

 重要なのは、関東大震災時の治安維持が、上記の時代に朝鮮統治を担っていた人間たちによって指揮されたということである。水野錬太郎や赤池濃ら三・一独立運動の経験者は、朝鮮人の反乱を強烈に意識していた。当時横行していたフレーズに「不逞鮮人」というものがある。朝鮮人を「不逞」、つまり反抗的な行動を起こす者として認識する差別用語である。この言葉が1919年4月から大震災までに新聞各紙で頻繁に使用されるようになっていたという。政府の朝鮮統治経験者および当時のメディアは、朝鮮人=テロリストというイメージを民衆に喚起していた。これが先に述べた警察や政府から流されたデマにつながったのであろう。当時の日本は想像上のテロリストと戦っていた。

 公権力から流されたデマは、民衆にそれが真実であると錯覚させるに十分な影響力を有していた。実際、朝鮮人を虐殺したのは軍隊や警察のみならず、「警察化した民衆」たる自警団も含まれることが、当時の目撃者の証言からわかる。いわば官民一体の虐殺であった。また、軍関係者が地域住民に「朝鮮人を見かけたら殺すように」と虐殺の許可を出していた例もある。逆に、軍隊が虐殺を阻止する側に回った民衆中心の虐殺も埼玉などで見られた。虐殺のついでに女性への性的暴行が振るわれる例も後を絶たなかったという。

 民衆が朝鮮人虐殺に加担した論理は、軍隊など公権力からの許可が出ていたことはもちろんのこと、「朝鮮人はテロリスト」という認識が浸透しており、朝鮮人を殺すことは正当防衛として理解されていた側面がある。「殺されるくらいだから悪いことをしたに違いない」という風潮が蔓延し、公権力からの流言が虐殺を絶え間なく生み出すという負の連鎖が存在した。また、警察が震災で機能不全に陥っている中で、自身が活躍しているという自己満足の心性もあった。日比谷焼き打ち事件の際にも見られた「男らしさ」の発揮と類似する論理である。

 公権力からの虐殺許可による「解放感」、「朝鮮人はテロリスト」という印象操作、「危機に際して警察よりも役に立つ自分」。これらの論理が民衆を朝鮮人への暴力行為に走らせた。一方で、矛先となったのは朝鮮人だけではない。虐殺の翌日、埼玉は本庄警察署が襲撃されたという事件もある。この背景にはもともと土着の慣習をめぐるトラブルが存在するが、直接的な契機は朝鮮人に対する自警活動を警察によって否定されたことにあった。虐殺の最中、ある自警団員が警察署に朝鮮人を連行した際に、「一般大衆は手を出すな」と警察が発言するなど、警察権力を保持しようとする態度が見られ、それは当時の民衆の怒りを買った。19世紀末、新政反対一揆の際にも新政府に対する抵抗と、被差別部落民への迫害が同時的に見られたが、それと同様に関東大震災時にも警察権力に対する反発と朝鮮人に対する虐殺が同時的に見られた。権力への反抗と異人への差別は、民衆の中で矛盾なく同居し得る感情だったのである。

 また、朝鮮人を保護した日本人も若干ながら存在する。注目すべきはその理由である。彼らが朝鮮人を保護したのは、日常的に接触する機会が多かったためであった。したがって、見ず知らずの朝鮮人であれば殺すという者も存在した。そもそも朝鮮人に対する蔑視の風潮が当時の日本に浸透していたことも看過できない。個人に対する親しみと、民族に対する蔑視もまた、民衆の中に矛盾なく同居し得る感情であった。

 

6.4つの事件を経て―現代的な視点から―

 4つの事件を見ることによってわかった民衆暴力の論理をごく簡潔にまとめてみよう。まず、近世の「世直し一揆」に始まる世直しの願望は、新政反対一揆秩父事件にも共通して見られた。勤勉・質素・倹約を掲げる通俗道徳に収まり切れなかった人々がそうした願望を抱いたという意味では、日比谷焼き打ち事件にも見られる論理であったといえよう。また、政府・軍隊・警察などの権力に対する反発と「異人」に対する嫌悪は、新政反対一揆朝鮮人虐殺に如実に表れている。これらは従来と変わらない生活と自階級の特権を守るために、矛盾なく同居し得る論理であり、相異なる2つの方向へと暴力を向ける論理であった。

 国家の暴力の正統性という観点からは、時代を下るにつ入れて徐々に確立され、時に再規定されていったことが伺える。近世は仁政という領主・百姓関係の下、暴力装置を必要としなかった日本であるが、仁政が保てなくなると民衆暴力は過激化し、それを鎮めるための軍隊や警察が整備された。これら国家の暴力装置は、時に完璧に民衆暴力へのけん制として機能したが、それを上回る規模やエネルギーを持った新たな形の民衆暴力が出現することで、警察・軍隊はその形の再考を余儀なくされた。日比谷焼き打ち事件を経て、国家の暴力装置は民衆の生活に浸透する形を取るようになり、これが再度権力への反抗・異人への差別を目覚めさせた。

 本書冒頭でも指摘されているが、我々は過去の暴力行為を見る際に「未熟」だとか「野蛮」という感想を抱きがちである。しかし、いままで見てきたように、4つの事件はそれぞれ様々な側面で連続性を持って起こっており、そこに歴史の断絶はない。すなわち、同様の論理でもって暴力が振るわれる/振るってしまう可能性が、現代に生きる我々にも十分にあり得ると考えられる。未来に生きる人々が、現代における様々な事件を見て「野蛮」と評する可能性だってゼロではない。

 経済史の領域では、資本家の論理に従って観測される経済を「ポリティカル・エコノミー」(political economy)と呼ぶ。一方で資本家とは全く異なる思惑、つまり民衆の論理に従って観測される経済「モラル・エコノミー」(moral economy)というものも存在する。一般的に経済学というと、需要曲線と供給曲線から始まる数学を用いた世界や、マルクス経済学のような資本家と労働者の闘争の世界をイメージするであろう。モラル・エコノミーではこのどちらとも異なる、想像を絶する(一見すると)非論理的な民衆行動が観測される。

 モラル・エコノミーの例をいくつか紹介してみよう。今回紹介する本書とは異なりイギリスの例となるがご容赦いただきたい。まず、スキミントン(文化人類学ではシャリバリ)と呼ばれる制裁的儀礼がある。これはある個人のプライバシーを大勢の前に晒し、みんなで嘲笑することによって懲罰と同調を演劇的にプロデュースする行為である。より簡潔にいうと、「いじめ」を模した行為によってある規範を強制し、それを承認させる効果を持ったパフォーマンスである。例えば、いつも女房が夫をどやしつける家庭がある。その女房は柔弱な夫に愛想をつかして別の男と密通した。そしてそれが第三者に知られてしまった。これは家父長的な規範に従えば、忌まわしく許しがたい「恥ずべき結果」である。そうした恥ずべき結果を招いた夫とその妻を第三者が演じ、それを周りの人々が嘲笑したり騒ぎ立てたりすることで、その家庭に対するある種の制裁とする。これがスキミントンである*6

 本書のテーマに近しい民衆一揆の例も紹介しよう。18世紀イギリスの食糧一揆は様々な形で領主に対する抗議がなされた。その中の1つに脅迫状がある。不当な食糧価格に抗議するための脅迫状には、焼き打ち・殺害といった激烈な文言が踊っており、新聞などのメディアに掲載された。しかし、こうした過激な脅迫状は実際に実行されることを前提に書かれたのではない。宣言通りに一揆が起こった場合でも、器物等の打ちこわしは実行されたものの、人身にまでは被害が及ばないような配慮がなされていた。脅迫状の文言は民衆自身が現状の悪辣な法に代わって適正な法を代執行するための正統性を宣言しているに過ぎず、いわば自分たち自身に「空気を入れる」レトリックであったという*7

 上記2例はいずれも一見すると理解しがたい慣習や行動論理に感じるかもしれないが、18世紀のイギリスで実際に見られた例であるという。というのも、モラル・エコノミーはイギリスの歴史家E.P.トムスン(Edward Palmer Thompson)によって確立されたイギリス史発の概念なのである。トムスンの研究を日本に紹介してきた近藤によると、モラル・エコノミーはいまや多義的ではあるものの、第一に「民衆がそれによって生産と生活の意味を保持していた伝来の権利観である」と理解される*8。すなわち、民衆の伝統的な慣習に基づく価値観・規範といえるであろう。ちょうど、本書における「男らしさ」を価値としていた工場労働者のように。また、第二に「より広い世界との関係をめぐるイデオロギー」、「統治者があるいは民衆が、資本主義を代表的具現とするものに疑惑と非難を投じる心性・世界観」とも規定されている*9。すなわち、近代的産物である資本主義に対する反抗と解釈できるであろう。ちょうど、本書における近代化政策に反対してきた新政反対一揆のように。

 これらの観念を直観的に「前時代的」と評するのは早計である。本書でも見てきたように、民衆は民衆の論理で政治的主張を、経済的活動を行ってきた。それに対して「野蛮」「未熟」といった評価を下すことが必ずしも正しくはないことは、ここまで繰り返し述べてきたとおりである。民衆の暴力の論理は近世から20世紀まで、ある程度の連続性を持って変化してきた。そして、それが現代にも連綿と続いている可能性は否定できない。我々は社会問題や経済問題を論じる際に、極端に合理化されたポリティカル・エコノミーの枠組みで考えがちではないだろうか?そうしたバイアスこそが、「異人」などのよく知り得ないものに対する差別につながっていたりはしないだろうか?我々の知り得ない価値観は、実はモラル・エコノミーの論理から捉えなおすことができるのではないか?BLMやCOVID-19に係る騒動に対する我が国の情報や大衆の見解を見ていると、そう疑問に思うときがしばしばある。「知らないもの」に対して真摯に理解する姿勢を諦めているような言説まで散見される。

 近年の歴史学はテーマが細分化されすぎた結果、自己目的的な実証主義に陥っていると批判されることがある。その意味では本書は、現代的な意義が明確に打ち出されており、利他的・多目的的な研究成果を提供してくれている。著者自身はあとがきで「歴史家は、未来を予測することが不得手である」と記しているが、個人的には「いま」と「これから」について考えさせてくれる未来志向の歴史研究であるように感じた。もちろん、問題設定や史料批判といった点でも非常に参考になる研究であったことは言うまでもない。

 最後に著者自身によって示された本書の意義を紹介して終わりとしたい。「これから」の社会を見て、そして考えていく上で、極めて重要な視座であると共感した。

 「暴力はいけない」という道徳的な規範だけで民衆暴力を頭から否定することは、そこに込められた権力関係や、抑圧をはね飛ばそうとする人々の力を見逃すことになる。それだけでなく、抑圧された苦しい現状から一挙に解放されたいという強い願望と、差別する対象を徹底的に排除して痛めつけたいという欲望とが、民衆のなかに矛盾せず同居していたことも見逃しかねない。

 権力への暴力と被差別者への暴力とは、どちらかだけを切り取って評価したり、批判したりすることが困難なほど、時に渾然一体となっていた。一度暴力が起きると、さまざまな感情や行為が連動して引き出されるためである。

 したがって、過去の民衆暴力を簡単に否定することとも、権力への抵抗として称揚することとも、異なる態度が求められる。*10

 

参考文献

マックス・ウェーバー(野口雅弘訳)『仕事としての学問/仕事としての政治』講談社、2018年。

・尾形勇、樺山紘一、木畑洋一編『20世紀の歴史家たち(4)世界編 下』刀水書房、2001年。

・金基淑編著『カーストから現代インドを知るための30章』明石書店、2012年。

カーストから現代インドを知るための30章 (エリア・スタディーズ 108)

カーストから現代インドを知るための30章 (エリア・スタディーズ 108)

  • 作者:金 基淑
  • 発売日: 2012/08/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

近藤和彦『民のモラル―ホーガースと18世紀イギリス』筑摩書房、2014年。

寺西重郎『日本型資本主義―その精神の源』中央公論新社、2018年。

日本型資本主義 その精神の源 (中公新書)

日本型資本主義 その精神の源 (中公新書)

 

・野口雅弘『マックス・ウェーバー―近代と格闘した思想家』中央公論新社、2020年。

藤野裕子『民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代』中央公論新社、2020年。

本書。

・フェルナン・ブローデル(浜名優美訳)『地中海』藤原書房、2004年(全5巻)。

リンクは第1巻。

〈普及版〉 地中海 I 〔環境の役割〕 (〈普及版〉 地中海(全5分冊))
 

山際素男『不可触民と現代インド』光文社、2003年。

不可触民と現代インド (光文社新書)

不可触民と現代インド (光文社新書)

 

 

*1:F.ブローデルは歴史を表層・中層・深層の3段階に分け、政治的事件を短期的に頻発するものとして表層、社会・経済的な要因を中期的なサイクルのイベントとして中層、地理や環境の要因をほとんど動かない長期的波動として深層に割り当てた。そのうえで、歴史を分析する際には深層に存在する長期的波動を重視する必要があると述べた。詳しくは、フェルナン・ブローデル(浜名優美訳)『地中海』藤原書房、2004年(全5巻)を参照。ちなみに各巻の副題は以下の通り。「Ⅰ.環境の役割」、「Ⅱ.集団の運命と全体の動き1」、「Ⅲ.集団の運命と全体の動き2」、「Ⅳ.出来事、政治、人間1」、「Ⅴ.出来事、政治、人間2」。

*2:本書でも引用されているが、詳しくはマックス・ウェーバー(野口雅弘訳)『仕事としての学問/仕事としての政治』講談社、2018年、92~93頁を参照。また、野口雅弘『マックス・ウェーバー―近代と格闘した思想家』中央公論新社、2020年、105~107頁あたりも詳しい。

*3:寺西重郎『日本型資本主義―その精神の源』中央公論新社、2018年。

*4:違式詿違とは、裸体や半身を出して道路を歩くこと、くみ取った糞尿をふたなしで運ぶこと、道路で大声をあげることなど、当時の人々が習慣的に行っていた行為をきめ細かく規制する条例。本書、35頁。

*5:不可触民(アウトカーストアンタッチャブルとも呼ばれる)とはインドにおいて「不浄」とされる一切の仕事を強制され、「触れるだけで穢れ」とされる、バラモン階級によって人為的に作られた被差別階級である。肉体労働はもちろんのこと、人間・動物の死体処理、ごみ集め、靴職人、獣の皮剥ぎ、竹・籐細工、鍛冶職人、酒造などの仕事がこれに該当し、現在でもその差別問題は根深く残存している。詳しくは、山際素男『不可触民と現代インド』光文社、2003年、金基淑編著『カーストから現代インドを知るための30章』明石書店、2012年などを参照されたい。

*6:近藤和彦『民のモラル―ホーガースと18世紀イギリス』筑摩書房、2014年、13~72頁。スキミントンは他にも「丸太かつぎ」や「ラフ・ミュージック」などの呼び名でも知られる。

*7:同上、131~227頁。

*8:近藤和彦「トムスン(エドワード・パーマ)1924~93」尾形勇、樺山紘一、木畑洋一編『20世紀の歴史家たち(4)世界編 下』刀水書房、2001年、342頁。

*9:同上、343頁。

*10:本書、208~209頁。