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【書評】秋田茂、細川道久『駒形丸事件─インド太平洋世界とイギリス帝国』筑摩書房、2021年

秋田茂、細川道久『駒形丸事件─インド太平洋世界とイギリス帝国』筑摩書房、2021年、270頁

 

 駒形丸事件と聞いて耳なじみのある人は決して多くないだろう。恥ずべきことに評者自身もこの本を手に取るまで聞いたことがなかった。駒形丸事件とは、1914年、インド人実業家のグルディット・シンが多くのインド人移民を乗せてカナダに向かい、カナダ政府より上陸を拒否された事件である。そのときにシンと移民が搭乗していた日本産の船「駒形丸」にちなんでつけられた。

 当然、インド人移民は上陸拒否に猛抗議した。カナダとインドのバンクーバー沿岸での衝突はおよそ2か月にわたり、その間インド人移民は船上で劣悪な生活を余儀なくされた。カナダ現地での裁判にまで発展した後、インド人移民のほとんどが最後まで上陸を認められず、駒形丸はもと来た航路を引き返さなくてはならなかった(図1)。

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図1 駒形丸の航路

 駒形丸事件は極めてマイナーな事件であると言えよう。しかし、その背景には単にインド・カナダ間の抗争だけでなく、アジア経済の発達、イギリス帝国と植民地の関係、戦争、インド現地の情勢といった様々な要因が絡み合っている。1914年にバンクーバーで起こった一つの事件を手掛かりに、当時のアジア・太平洋世界における政治・経済構造を明らかにしているのが本書の目覚ましい特長である。昨今、その重要性が注目されているグローバル・ヒストリー*1の事例研究の代表とも言えよう。

 評者が本書を手に取ったきっかけは他でもなく著者にある。秋田、細川はイギリス帝国史においてその名を知らぬ者はいないと言えるほど多大な貢献を有する歴史家である。評者自身、これまでの研究活動において、2人の著作には大きく影響を受けた。本書の内容紹介に入る前に両氏について簡潔に紹介しておこう。

 秋田はもともと、木畑洋一・旦祐介・竹内幸雄らイギリス帝国史の重鎮とともにP.J.ケイン、A.G.ホプキンスの「ジェントルマン資本主義論」を日本へ紹介した実績を持つイギリス史家である。しかし、若いころからすでに他のイギリス史家とは異なる視点を有しており、イギリス帝国の周辺(植民地)、特にアジアに着目した斬新な研究を行ってきた。中公新書から出版された『イギリス帝国の歴史─アジアから考える』(2012年)は言わずと知れた名著である。近年はグローバル・ヒストリーの研究成果を踏まえて、特にインドの社会経済に関心を持ち、イギリス支配下の19世紀から独立後の冷戦までの幅広い時代を扱っている。

 一方、細川はイギリス帝国史の文脈におけるカナダ研究の第一人者である。カナダは国民国家としては比較的歴史の浅い国であるが、アメリカとの関係性からイギリス帝国領の中でもその独自性を指摘されてきた。一方で、カナダはグローバル・ヒストリーの申し子とも呼ばれる。その所以は、細川がこれまで政治・経済・文化といった多様な視点からカナダの独自性を描いてきたことにあろう。海外のグローバル・ヒストリー研究の翻訳においても大きな貢献がある細川はオールマイティなカナダ史家と言える。

 上記を踏まえると、本書のテーマである駒形丸事件はインドとカナダが主役という点で、2人の著者による本領が発揮される事象と言えよう。

 

本書の構成 ※括弧内は担当執筆者

はじめに(秋田・細川)

第1章 19-20世紀転換期の世界とイギリス帝国の連鎖(秋田)

第2章 インド・中国・日本──駒形丸の登場(細川・秋田)

第3章 バンクーバーでの屈辱──駒形丸事件(細川)

第4章 駒形丸事件の波紋(秋田)

終章 インド太平洋世界の形成と移民(秋田)

おわりに(細川)

あとがき(秋田)

 

 上記からもわかるように、秋田がアジア、細川がカナダに関する領域を主に担当している。それでは、駒形丸事件の詳細を簡潔に紹介した上で、本書の論点を議論していこう。

 

1.駒形丸事件の詳細

 駒形丸の航海は、アジアの移民が出稼ぎのためにカナダを目指す潮流の中で行われた。インド人を含むアジア系移民がカナダにおいて増加した背景には、19~20世紀の転換期に中国・日本・インド・東南アジアといったアジア太平洋一体でアジア間貿易が発達したことにある。19世紀中葉からイギリスは自由貿易体制の下、「非公式的な支配」を巧みに用いることで帝国主義政策を維持してきた*2が、イギリスの確立した自由貿易体制や海底電信ケーブル*3などの国際公共財が上記のアジア間貿易の発達を促した。イギリスが自国の利益のために整備した制度によって、自らが支配するはずの植民地も地理的・経済的に利益を享受する状況が生じたのである。

 アジア間貿易の形成はアジア諸国における航海を円滑にした。また、アジア人の移動はアジア圏内に留まらず、オーストラレーシア(オーストラリア+ニュージーランド)や北米といった太平洋世界にまで及んだ。特に本書の舞台となるカナダでは、19世紀後半に大陸横断鉄道(Canadian Pacific Railway)の建設が始まると、中国人移民が出稼ぎ労働者として爆発的に増加した。当時のカナダ政府はこれらの移民について貴重な労働力と認識していたが、カナダ現地住民は「野蛮」、「ホワイト・カナダ(白人社会のカナダ)を汚す存在」として彼らを忌避していた。そして、大陸横断鉄道が完成すると、急遽カナダ政府も中国人移民を人頭税によって制限する政策を打ち出した。典型的な白人至上主義・オリエンタリズム的な態度が見られたのである。

 カナダへのアジア系移民は中国人に限らなかった。日本人移民も1880年代後半から徐々に増え始めた。中国人移民と同様に、現地の白人はこうした傾向を快く思っていなかったようであるが、日英同盟に代表される宗主国イギリスと日本の関係維持のために、当初は過激な排斥は控えられたようである。しかし、そうした状況は20世紀に入って日本人移民が爆発的に増加したことによって一転する。カナダの白人が中国人街・日本人街を襲撃するバンクーバー暴動が1907年に起きたのである。同時期、アメリカやオーストラレーシア等の太平洋一帯の自治*4では結託してアジア人を排斥する態度が見られ、バンクーバー暴動はこれを象徴する事件となった。

 では、駒形丸事件の当事者となるインド人移民についてはどうだろうか。インド人移民がカナダに到来するのは20世紀に入ってから、中国人・日本人よりやや遅れてのことである。最初の移民は5人のシク教徒と言われており、その後もインドからカナダへの移民はシク教徒が大半を占めた。当初は入国を制限された中国人の代替労働力として移住し、安価な労働力として雇用主からも歓迎された。カナダにとって、インド人が中国人・日本人と異なった点は、同じイギリス帝国の属国であるということだった。すなわち、インド人は共通の宗主国の王に忠誠を誓う「帝国臣民」の同胞であった。帝国臣民という概念は、歴史上築かれてきた諸帝国の中でもイギリス帝国特有のものであり、帝国臣民にはイギリス帝国内の移動・定住の自由が認められていた。このため、カナダはインド人移民に対して忌避感を示しつつも、公的に排斥することができなかった。しかし、バンクーバー暴動で日本人への排斥の箍が外れると、インド人移民もカナダにおける白人至上主義の偏見からは逃れられなかった。ついに入国を制限されるようになったのである。

 カナダ政府は、日本人には数量的な方法で、インド人には「連続航路規定」を設けることによって、それぞれ移民を制限した。連続航路規定とは、出生した国もしくは市民権のある国(すなわちインド)から、カナダ政府によって独自に規定された航路を、通し切符を所持してカナダへ到着しなければならないというものである。これらに加え、後に200ドルの現金所持も規定に加えられた。この条件は当時のインド人には極めて過酷であったが、カナダ政府は追い打ちをかけるように通し切符を販売しないよう各所に圧力をかけた。しかも、インド人にはこうした規定の存在は十分に周知されていなかった。こうした状況の中で、駒形丸はカナダを目指して出帆することとなった。

 日本の神栄汽船合資会社が有する駒形丸号は、もともとは神戸と中国・大連間を貨物船として行き来する便宜置籍船*5であった。当時、インドのシク教徒の実業家グルディット・シンは北米へのアジア系移民の増加に関心を抱いており、移民船ビジネスの可能性を画策していた。そのための船を探していたところ、香港のドイツ系海運仲介業者の紹介を受け、駒形丸をチャーターすることとなった。運営に係る乗組員は全て日本人、傭船期間は半年、11,000香港ドル/月という条件でチャーター契約が実現した。こうした経緯で駒形丸は、香港でインド人移民を乗せてカナダへと向かうが、当初は思ったよりも移民希望者が少なかったため、途中上海と日本(九州・門司と横浜)に寄港して移民希望者を増やした。その9割がインド人シク教徒であった。

 1914年4月4日に香港を出航した駒形丸は、5月23日、とうとうカナダはバンクーバーに至る。香港を発つ前に香港総督F.H.メイは連続航路規定の施行状況についてカナダに問い合わせていたが、これをグルディット・シンらに知らせることはなかった。あろうことか、メイ総督はカナダ政府の回答がないまま見切り発車で出航を許可した。バンクーバー沿岸に現れた駒形丸を見たカナダ移民局は、何が何でもインド人移民を上陸させまいと、人道に悖るあらゆる手を尽くした。対して、グルディット・シンらは当然、帝国臣民の自由な移動の原則を根拠に、カナダ移民局に抵抗した。すでにカナダに移住していたシク教徒系インド人もこれを精力的に支援した。そして、先に述べたように駒形丸は、約2か月間バンクーバー港への接岸を許されず、船上での限界状態が続いたのである。

 これがいわゆる「駒形丸事件」の経緯であるが、この事件の構図は直観的に理解できるほど単純ではない。この2か月間の詳しい経過については本書を実際に読んでいただく方が早いため省略するが、ここで言及が必要なのはその対立構造である。一見、カナダ政府とインド人移民の対立のように見えるが、実際にインド人移民の上陸を徹底して拒んでいたのはカナダ移民局の独断によるところが大きく、カナダ政府は移民局に振り回されていたという見方の方が適切である。カナダ政府が法的手続き──すなわち法廷で決着をつけるべきという姿勢を示したのに対し、カナダ移民局はできれば法廷闘争に持ち込みたくないために、駒形丸のチャーター代の支払期限満了を狙って入国審査を遅らせるなどしていた。したがって、当初の対立はインド人移民とカナダ移民局の間にあった。

 しかしながら、カナダ移民局の「遅延」の試みが失敗に終わり、決着が裁判に持ち込まれると、この対立構造にも若干の変化が生じた。裁判で議論されたのは、カナダの白人によるアジア人排斥といった人種差別的な態度ではなく、移民法と帝国臣民の原則の矛盾点であった。先にも述べた通り、新しく制定された移民法によりインド人移民のカナダへの入国は、連続航路規定という極めて厳しい条件が課せられていた。一方で、イギリス帝国の臣民はイギリス帝国領内であれば移動の自由が保障されており、連続航路規定はこの原則を越権するものであった。これに対してカナダ政府は、移民の処遇を「内政問題」として捉え、イギリス本国に自治を認められた自治領(Dominion)たるカナダは、内政自治の一環として上記の移民法を制定できると判断しており、ブリティッシュ・コロンビア州控訴裁判所もこの論理を支持した。すなわち、帝国臣民の原則よりも自治領の特権の方が優先度が高いという判決であった。そして、イギリスもこの裁定に異を唱えることはなかった。むしろ、この裁定を容認するイギリスの態度は、自治領の自立性を保証するものであったという。なお、移民法が孕む人種差別的な態度の是非については、裁判で立ち入ることが頑なに避けられ、中には差別を容認する判事もいたという。

 一方、日本政府関係者の耳にも当然この事件は届いていた。しかし、日本側が取った行動は、日和見主義に徹して穏便な解決を待つのみであったと言える。現地バンクーバー日本領事の堀義貴は、事件に際して中立不干渉の態度を堅持した。カナダにおけるインド人排斥の激化が、日本人への排斥感情を和らげるのに好都合であると考えたためである。一方で、こうした思惑を前面に押し出すと、日印間の関係にひびが入ることは必至であった。そのため、堀領事は事件当時者の山本船長に助言を求められた際にも、当たり障りのない励ましを述べるにとどめた。しかも、堀領事は終いには「目下の利益に目が眩んでグルディット・シンの無謀な移民事業に便乗した」として駒形丸を始めとした便宜置籍船の活動を非難している。

 結局、駒形丸でカナダへと渡ってきたインド人移民は上陸を認められなかった。裁定後もカナダ移民局とインド人移民の抗争はしばし続いたが、上訴が経済的に厳しいことを悟ると、グルディット・シンらは最終的に退去を受け入れた。こうして駒形丸はもと来た航路を引き返すことになるのだが、駒形丸事件はここで終わりではない。以降も駒形丸とインド人移民は、国際的な緊張関係の渦に巻き込まれ続ける。

 7月23日午前5時10分、駒形丸は香港へ帰るために抜錨したが、途中神戸港に立ち寄り、駒形丸の所有者・神栄汽船合資会社との交渉を経て、復路の目的地をインド・コルカタへと変更した。しかし、当時のインド総督ハーディングはインド入国管理規定を制定し、少しでも不審と思われる入国者を逮捕・拘束することを試みていた。駒形丸事件でも精力的に活動していた北米のシク教徒系ディアスポラ(離散集団)のガダル党が、第一次世界大戦の混乱を好機と捉え、急進的な反英活動を展開し始めたためである。

 このような情勢の中でインドに帰還したグルディット・シンらは、コルカタ入港直前のバッジ・バッジでコルカタ警察に進行を阻まれた(図2)。コルカタ警察はガダル党の反乱が激化する現状、シク教徒がコルカタ市内に立ち入ることにより生じる混乱を危惧し、インド入国管理規定のもと特別列車で駒形丸乗客をパンジャーブへ送還しようと計画していた。ところが、グルディット・シンを含む大半のシク教徒はこれに応じず、徒歩でコルカタを目指し始め、警察と衝突した。この衝突はやがて銃撃戦へと発展し、30名近くの死者を出した。バッジ・バッジの騒乱と呼ばれるこの事件によって、駒形丸事件は最悪の結末を迎えたのである。

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図2 バッジバッジ(インド)の地理

 

2.本書の論点

 バッジ・バッジの騒乱の際、グルディット・シンは闇夜に紛れて逃走に成功した。その後、彼は身をひそめながらも筆を執るなどして、駒形丸事件やバッジ・バッジの騒乱の理不尽を世間に発信し続けた。一方、バッジ・バッジの騒乱後もインド政府によるガダル党への強権的弾圧は続き、かの残酷なアムリットサル大虐殺*6へとつながる。本書では駒形丸事件からアムリットサル大虐殺までの連続性も強調されており、駒形丸事件がカナダから海を越えて様々な地域へと影響を及ぼした事件であったことが伺えるが、評者が何よりも強調したい本書の論点は、やはり帝国・自治領関係の変化についてである。

 駒形丸事件およびカナダにおける移民問題は裁判の結果、カナダの「内政問題」と判断され、帝国臣民の原則よりも自治領の特権の方が優先度が高いという裁定となった。本書ではこの裁定結果を、「イギリスと自治領の関係の変容を促す重要なきっかけとなった」*7と評価しており、その後のコモンウェルス体制*8へとつながる「自治領側の独自性を明示した画期的な判断」*9と結論付けている。すなわち、駒形丸事件の裁定によってカナダはイギリス帝国からの自立を強め、これが後にイギリス帝国に終焉をもたらし、コモンウェルス体制へ移行するきっかけとなったと主張している。

 帝国・自治領関係の変化という観点からは、先行研究上いくつかのマイルストーンが提示されている*10が、殊にカナダの自立に限っては、チャナック危機(1922年)とオヒョウ条約(1923年)が重要視されてきた。一方で、駒形丸事件はほとんど言及されてこなかった。このような研究史の潮流の中で、本書が指摘するように駒形丸事件を帝国・自治領関係を大きく揺るがした事件として扱うことは可能だろうか?チャナック危機およびオヒョウ条約と比較することで、この点を議論していきたい。

 チャナック危機とは、第一次世界大戦終戦後に起きた希土(ギリシャ=トルコ)戦争(1919~22年)に際して、イギリスが介入することによって生じた、トルコのチャナック(チャナッカレとも:図3)中立地帯を巡るイギリス・トルコ間の戦争危機である。希土戦争においてギリシャを支援したイギリス軍は、希土戦争終戦後もチャナックに居座ることを宣言したが、これがトルコ軍との対立を生じさせた。第一次世界大戦による疲弊もあり、最終的には和平交渉へと落ち着いたが、緊張状態下においてイギリスは、自軍のみでチャナックをトルコの進軍から守り切れる保証がなく、自治領へと軍事援助を求めていた。このとき、カナダのマッケンジー・キング首相は、イギリス国内の政治的理由でイギリスが再び自治領を戦争に巻き込もうとしていることを非難し、まずはカナダ議会での十分な議論が必要であるとの見解を示した。こうしたカナダの批判的態度は、帝国離れの萌芽と位置付けられている*11。一方で、国際法学の立場からは、チャナック危機に際してカナダをはじめとする自治領は、仮にイギリス本国が戦争義務を課した場合、その義務から逃れることは法的に不可能であったとされている。そのため、上記のようなカナダの批判的態度は最終的に「消極的交戦」へと落ち着いたはずであるという*12。したがって、チャナック危機に対するカナダの非難から自治領の自立性を見出すことはできないという主張も存在する。

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図3 チャナック(トルコ)の地理

 しかしながら重要なのは、チャナック危機とその後のオヒョウ条約締結までを一連の流れとして捉えることであろう。オヒョウ条約とは、チャナック危機の翌年、1923年3月にアメリカとカナダの間で結ばれた、オヒョウ漁獲規制に関する条約である。カレイ目カレイ科の海水魚オヒョウが太平洋において激減したことを受けて、カナダとアメリカの間で結ばれた。1923年11月16日から1924年2月15日までの3ヵ月間、自発的なオヒョウ漁が2国間で禁止され、オヒョウ以外を目的とした漁で偶発的に釣れたオヒョウに関しては、船員の食糧とするか、帰漁後ただちにカナダ水産省およびアメリカ商務省に引き渡すことが義務付けられた*13

 特筆すべきは、カナダがイギリスの承認を得ずに、アメリカと独自にこの条約を締結したという点である。条約締結に際して、イギリスはカナダに、イギリスとともに署名を行うよう求めたが、カナダは他の自治領に影響を与えない条約であるとして独自での署名を強行した*14。オヒョウ条約は、チャナック危機でのカナダの自立を補強する形で語られることが多い。しかし、先に述べたように、カナダの自立を語る上でチャナック危機の重要性に懐疑的な主張も存在することから、オヒョウ条約そのものをより重視して駒形丸事件と比較する必要がある。

 駒形丸事件は、カナダが帝国臣民の原則を無視して移民規制法を制定できるとした司法的・政治的な領域の問題であったと言える。一方でオヒョウ条約は、広義には産業的・経済的な領域の問題と考えられるだろう。規模の観点から言えば、オヒョウ条約がカナダ・アメリカによる2国間の問題であるのに対し、駒形丸事件は人種差別および移民排斥運動が同時期に環太平洋一帯でも見られたことから、より大きな規模を有する問題だと考えられる。年代的にも駒形丸事件(1914年)の方が、オヒョウ条約(1923年)よりも先に発生した事象である。かといって、オヒョウ条約を帝国に関係のない事象だとか、さして重要でない事象と捉えるのは早計であろう。オヒョウ条約から約8か月後、1923年11月の帝国会議では、「その自治領のみに関わる条約はその自治領の判断で独自に締結できる」ことがイギリスによって認められた*15。すなわち、オヒョウ条約の手続きの正当性が認められたのである。この決定がオヒョウ条約を意識した結果であるということは言うまでもない。カナダによるアメリカとの独自の条約締結は、その後の自治領の外交指針に確かに影響を及ぼしたのである。

 一方で、駒形丸事件は帝国・自治領関係に具体的にどのような影響を与えたのだろうか?この点は、本書で言及が不足していると思われる。実は、駒形丸事件以降、カナダ以外の自治領でもインド人に対する移民規制が導入されている。例えば、オーストラリアとニュージーランドでは英語の運用能力が求められ、テストの結果十分な英語話者と認められないインド人は定住に適切でないとして入国を許されなかった。南アフリカでは既住者の家族以外、インド人移民は原則入国禁止とされた。インド人移民に制限を課さなかった自治領はニューファンドランドだけであったという。また、1917年の帝国戦時会議において、イギリスのインド省はこうした状況を「どの自治領も無学な(uneducated)アジア人の流入から守られている」と評している*16。この評価にはイギリス帝国におけるオリエンタリズム的な思想も垣間見え、イギリスがカナダの移民法をめぐる裁定に異議を唱えなかったことも、この思想が少なくとも根底にあるように思われる。しかしながら、駒形丸事件以降、カナダ以外の自治領でも移民問題は「内政自治」として扱われるようになったことは間違いない。駒形丸事件の裁定は自治領の内政指針を明確に打ち出したことから、本書の主張は正鵠を射ていると言えよう。

 興味深いのは、駒形丸事件という外交に関わる問題が、自治領の内政指針を確立させた一方で、オヒョウ条約という他の自治領に直接関係のない条約が、自治領の外交能力を拡張させたことである。自治領の自立性は、先に述べた「いくつかのマイルストーン」となる事象によって段階的に拡張されてきた歴史がある。憶測の域を出ないが、オヒョウ条約後の帝国会議で「その自治領のみに関わる条約はその自治領の判断で独自に締結できる」という決定が下されたのは、駒形丸事件のような帝国本国と自治領との衝突が積もり積もった結果なのではなかろうか。重視すべきは、駒形丸事件がオヒョウ条約より時代的に古いということである。そして、従来の研究史上、帝国・自治領関係を揺るがす「マイルストーン」として、駒形丸事件はほとんど言及されてこなかった。すなわち、今後、イギリス帝国からコモンウェルスへの転換を議論する上で、駒形丸事件は欠かせない事象として扱われていくべきであろう。

 この他、アジア間貿易の形成とコモンウェルス構想の関係や、インド人移民にとっての帝国臣民のステータス等、論点はいくつか思い浮かぶが、これらの議論はまたの機会に譲るとしよう。本書の最大の貢献は、コモンウェルス体制への移行に伴う帝国・自治領関係の変遷に、駒形丸事件も大きく関与しているということを明示した点である。自治領の形成から1931年ウェストミンスター憲章によるコモンウェルス発足に至るまで、ダラム報告、植民地法有効化法、英愛条約、ラウンドテーブル運動、バルフォア報告書など数々のマイルストーンが置かれてきたが、ここに駒形丸事件を付け加えたことは意義深い。コモンウェルスという存在はいまだもってその役割が活発に議論されている政体である。植民地にとってのコモンウェルスを考える上で、駒形丸事件を新たなマイルストーンの一つに加えて、引き続き研究動向を追っていきたい。

 

参考文献

・Gallagher, John.; Robinson, Ronald., ‘The Imperialism of Free Trade’, Economic History Review, New Series 6:1 (1953), pp.1-15.

・McIntyre, W. David., The Commonwealth of Nations: Origins and Impact, 1869-1971 (St. Paul, 1977), pp.186-187.

Commonwealth of Nations: Origins and Impact, 1869-71

Commonwealth of Nations: Origins and Impact, 1869-71

 

・McIntyre, W. David., ‘The Commonwealth’, Robin Winks ed., The Oxford History of the British Empire, Volume V: Historiography (London, 1999), pp.558-570.

The Oxford History of the British Empire: Volume V: Historiography

The Oxford History of the British Empire: Volume V: Historiography

  • 発売日: 2001/09/20
  • メディア: ペーパーバック
 

・小川浩之『英連邦─王冠への忠誠と自由な連合』中央公論新社、2012年。

英連邦 (中公叢書)

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  • 作者:小川 浩之
  • 発売日: 2012/07/09
  • メディア: 単行本
 

・亀井紘「第一次世界大戦とイギリス帝国」佐々木雄太編『世界戦争の時代とイギリス帝国』ミネルヴァ書房、2006年、27~59頁。

・旦祐介「自治領化とコモンウェルス―帝国・意識・主権―」木畑洋一編『大英帝国と帝国意識─支配の深層を探る』ミネルヴァ書房、1998年、265~284頁。

・ヘッドリク, D.R.(横井勝彦、渡辺昭一監訳)『インヴィジブル・ウェポン─電信と情報の世界史1851-1945』日本経済評論社、2013年。

・松田幹夫『国際法上のコモンウェルスドミニオンの中立権を中心として─』北樹出版、1995年。

・松本佐保「「ラウンド・テーブル」運動とコモンウェルス―インド要因と人種問題を中心に―」山本正、細川道久編『コモンウェルスとは何か─ポスト帝国時代のソフトパワーミネルヴァ書房、2014年、191~220頁。

未刊行史料

・Imperial Conference 1923, Summary of Proceedings, British Parliamentary Papers (1923), XII [Cmd.1987].

・Imperial War Conference, 1917. Extracts from Minutes of Proceedings and Papers Laid Before the Conference, British Parliamentary Papers (1917-18), XXIII [Cd.8566].

・Treaty Series No. 18 (1925). Treaty between Canada and the United States of America for securing the preservation of the halibut fishery of the North Pacific Ocean, British Parliamentary Papers (1924-25), XXX [Cmd. 2377].

Webサイト(地図提供)

・d-maps.com

https://d-maps.com/index.php?lang=ja (2021年4月17日アクセス)

白地図専門店

https://www.freemap.jp/ (2021年4月17日アクセス)

 

*1:本書の定義するグローバル・ヒストリーは、「ローカル〈地方〉・ナショナル〈国家〉・リージョナル〈広域の地域〉・グローバル〈地球世界〉の4つの層での相互の結びつきを重視する」歴史学である。駒形丸事件におけるローカルとはバンクーバー(カナダ)、香港(中国)、神戸(日本)、コルカタ(インド)といった港湾都市、ナショナルとはカナダ、インド、イギリス、アメリカ合衆国、日本などの国家、リージョナルとはインド太平洋世界、グローバルとはイギリス帝国が世界に張りめぐらした種々のネットワーク、インド人移民の海外ネットワーク、人種意識などの思想的なネットワークなどを指す。本書、16~17頁。

*2:いわゆる自由貿易帝国主義論。Gallagher, John.; Robinson, Ronald., ‘The Imperialism of Free Trade’, Economic History Review, New Series 6:1 (1953), pp.1-15.

*3:イギリス帝国における海底電信ケーブルの重要性についてはD.R.ヘッドリク(横井勝彦、渡辺昭一監訳)『インヴィジブル・ウェポン─電信と情報の世界史1851-1945』日本経済評論社、2013年が詳しい。

*4:自治領とは、イギリスにより自治を認められた植民地のこと。ドミニオン(Dominion)とも。カナダ、オーストラリア、ニュージーランド南アフリカアイルランドニューファンドランドがこれに該当する。これら自治領に対して、インドなどの自治を認められていない植民地は、従属植民地と称される。

*5:船主が自身の国籍とは異なる国に船籍(船の国籍)を便宜的に置いている船のこと。例えば駒形丸の場合は、船主は日本企業であったが、駒形丸の船籍は中国の大連に置かれていた。大連と貿易を行う際、大連在籍船は課税を免除されていたためである。

*6:1919年4月、非武装のインド人市民に対して、レジナルド・ダイヤー准将率いるインド軍が無差別に発砲した事件。死者は1,200人以上に上った。アムリットサルはシク教徒の聖地。

*7:本書、146頁。

*8:コモンウェルスとは、1931年のウェストミンスター憲章によって発足した、「王冠への共通の忠誠」によって結ばれた自由で平等な連合のこと。英連邦とも。イギリスは第一次世界大戦の被害を受けて、もはや武力や資本といったハードパワーによる垂直的な帝国支配を維持できなくなっていた。そこで、自治領と本国との間に水平的な(=対等な)関係を標榜し、イギリス国王に忠誠を誓わせるというソフトパワーによって帝国支配を延命しようとした。当初、コモンウェルス体制は自治領にのみ適応されたが、第二次世界大戦が終わり、国際的に脱植民地化の潮流が訪れると、イギリスは従属植民地にもこの体制を適応し、旧植民地との政治的・経済的紐帯をつなぎとめようと試みた。

*9:本書、236~237頁。

*10:例えば、ダラム報告(1839年)、植民地法有効化法(1865年)、英愛(イギリス=アイルランド)条約(1921年)、ラウンドテーブル運動(1910~20年代)、バルフォア報告書(1926年)、ウェストミンスター憲章(1931年)などである。McIntyre, W. David., ‘The Commonwealth’, Robin Winks ed., The Oxford History of the British Empire, Volume V: Historiography (London, 1999), pp.558-570; 小川浩之『英連邦─王冠への忠誠と自由な連合』中央公論新社、2012年; 旦祐介「自治領化とコモンウェルス―帝国・意識・主権―」木畑洋一編『大英帝国と帝国意識─支配の深層を探る』ミネルヴァ書房、1998年、265~284頁; 松本佐保「「ラウンド・テーブル」運動とコモンウェルス―インド要因と人種問題を中心に―」山本正、細川道久編『コモンウェルスとは何か─ポスト帝国時代のソフトパワーミネルヴァ書房、2014年、191~220頁などを参照されたい。

*11:McIntyre, W. David., The Commonwealth of Nations: Origins and Impact, 1869-1971 (St. Paul, 1977), pp.186-187; 亀井紘「第一次世界大戦とイギリス帝国」佐々木雄太編『世界戦争の時代とイギリス帝国』ミネルヴァ書房、2006年、46~47頁など。

*12:松田幹夫『国際法上のコモンウェルスドミニオンの中立権を中心として─』北樹出版、1995年、113~115頁。また、マッケンジー・キング首相は批判的態度を示す一方で、大規模な戦争が起こった際にはカナダがイギリスを支えることは当然とも考えていた。小川『英連邦』、70頁。

*13:Treaty Series No. 18 (1925). Treaty between Canada and the United States of America for securing the preservation of the halibut fishery of the North Pacific Ocean, British Parliamentary Papers (hereafter, BPP ) (1924-25), XXX [Cmd.2377].

*14:McIntyre, The Commonwealth of Nations, p.187.

*15:Imperial Conference 1923, Summary of Proceedings, BPP (1923), XII [Cmd.1987], pp.13-15.

*16:Imperial War Conference, 1917. Extracts from Minutes of Proceedings and Papers Laid Before the Conference, BPP (1917-18), XXIII [Cd.8566], pp.159-160.