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【書評】ヒンドゥスタン・タイムズの黎明期を知る:1924~32年──The Hindustan Times (Prem Shankar Jha, Arvind N. Das, Brinda Datta, et al.) ed., History in the Making: 75 Years of The Hindustan Times (New Delhi, 2000), 198pp.

【書評】ヒンドゥスタン・タイムズの黎明期を知る:192432年──The Hindustan Times (Prem Shankar Jha, Arvind N. Das, Brinda Datta, et al.) ed., History in the Making: 75 Years of The Hindustan Times (New Delhi, 2000), 198pp.

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Amazon在庫切れのため、評者撮影による書影のみを掲載

 

 ヒンドゥスタン・タイムズ(Hindustan Times)はインド国内で流通する英字新聞で、K.K.ビルラ・グループが所有するインドの有力紙の1つである。2019年の年間総発行部数は約201万部で、これはインド国内の日刊紙としては15番目に多い数字である*1。また、インド国内の英字日刊紙に限れば、タイムズ・オブ・インディア紙(Time of India)、ザ・ヒンドゥー紙(The Hindu)に次いで第3位の発行部数を誇る*2。インドの新聞で使用されている言語は、ヒンディー語が約4割で最多、英語が約2割で2番目に多い*3という現状を考えると、英字新聞で3番目に発行部数の多いヒンドゥスタン・タイムズは大きな影響力を持つメディアであることが分かる。

 親会社であるK.K.ビルラ・グループは、もとは20世紀インドの大資本家G.D.ビルラが形成したビルラ財閥の一角であった。ところが、1983年にG.D.が息を引き取ると、子孫の間で相続をめぐる内部分裂は避けられなくなり、ヒンドゥスタン・タイムズは1970年以降取締役を引き継いだ長子K.K.ビルラのもとに帰属することとなった。

 詳しくは後述するが、ヒンドゥスタン・タイムズはもともとシク教徒系政党のアカリ・ダル党(Akali Dal)によって1924年に創刊され、財政難を受けて数年後にビルラ財閥が買収した。1920年代当時、G.D.ビルラはNew Empire紙やBengalee紙を買収するなど*4、新聞産業への積極的な参入が見られたが、ヒンドゥスタン・タイムズに限っては上記2紙と少々事情が異なり、能動的な買収ではなかった。しかしながら、厳しい財政状況やイギリスによる検閲を耐え抜き、独立運動プロパガンダの役割を果たしながら、現代に至るまで人気紙として発行が続いてきた。

 本書は、そんなヒンドゥスタン・タイムズの創刊75周年を記念して発刊されたメモリアル・ブックである。B4判に近いA4変形判という大きめの版型に、図や写真がふんだんに掲載されており、ヒンドゥスタン・タイムズが歩んできた過去を追体験できる社史のような位置付けの一冊となっている。

 評者は近年、ビルラ財閥とインドの独立運動の関係を調査しているが、ビルラ財閥がヒンドゥスタン・タイムズを独立運動に活用してきたことは先行研究で指摘されていながらも、ヒンドゥスタン・タイムズに関する詳細な研究が乏しいことを常々疑問に感じていた。こうした問題関心から、ヒンドゥスタン・タイムズの実態に少しでも迫るために、本書を手に取った次第である。本稿の構成は次の通りである。まず、第1節「本書の概要」にて簡潔に本書を紹介し評価する。次に、第2節「ヒンドゥスタン・タイムズの黎明期」にて、本書から分かるヒンドゥスタン・タイムズとビルラ財閥の関係に迫る。そして、第3節「本書に欠けている情報」で今後調査が必要な論点をまとめていくこととする。

 

1.本書の概要

本書の構成

Preface (Dr. K.K. Birla)

Part 1. History of The Hindustan Times

 The Long Road to Maturity (Prem Shankar Jha)

 My Father’s Father (Raj Mohan Gandhi)

 My Years at The Hindustan Times (Sham Lal)

 Chronicler of the Freedom Movement (Inder Jit)

 Part 2. History as Seen Through The Hindustan Times

 Reporting to the Nation (Arvind N. Das)

 Looking Ahead (Shobhana Bhartia)

 

 序文を元代表取締役のK.K.ビルラが担当しており、以降は「ヒンドゥスタン・タイムズの歴史」と「ヒンドゥスタン・タイムズを通して見た歴史」の2部からなる。

 第1部「ヒンドゥスタン・タイムズの歴史」では、ヒンドゥスタン・タイムズの歩んできた道のりが4人の著者によって紡がれる。元ジャーナリストPrem Shankar Jhaによる第1章は、創刊から企業としての成熟までを描いているが、第1部の中では最も長い尺(56ページ)を与えられており、本章がヒンドゥスタン・タイムズの事実上の通史と言える。創刊当初については、ビルラ財閥買収前から経営に携わっていたK.D. Kohliと1926年にプロの編集者として加わったJ.N. Sahniを中心として、頭角を現すまでに様々な工夫があったことが語られる。G.D.ビルラが経営に本格的に参戦してからは、やはり国民会議派独立運動との関係が主な争点となる。時代とともにヒンドゥスタン・タイムズ内の人や社会的価値観も大きく変化していったことが鮮やかに描かれる。

 第2章の著者Raj Mohan Gandhiは言わずと知れたインド独立の父マハトマ・ガンディー(Mahatma Gandhi:本名M.K. Gandhi)の孫にあたる。それだけでなく、父(つまりガンディーの息子)Devadas Gandhiはヒンドゥスタン・タイムズの編集長を長く務めた経歴を持つ。著者自身は歴史家であり、祖父と父、そしてその周辺の人物や出来事を知り得る限り詳細に記述した本章は、ヒンドゥスタン・タイムズのオーラル・ヒストリーともいうべき内容となっている。しかし、タイトルの割に言及が多いのはガンディーよりもDevadasの方で、ガンディー自身のヒンドゥスタン・タイムズへの関与はさほど目ぼしい情報がない。Devadasのヒンドゥスタン・タイムズ加入のきっかけや、彼の人となりが描かれているという点は貴重である。

 第3章の著者Sham Lalは、1934年に新卒でヒンドゥスタン・タイムズに編集者として加入した。後の編集長Devadas Gandhiとはほぼ同期のような間柄であった。やがてヒンドゥスタン・タイムズの人員不足に伴う激務に耐えかねて、1946年にタイムズ・オブ・インディア紙に移った経歴を持つ。そんな彼が、齢88歳にしてヒンドゥスタン・タイムズで過ごした10年間を振り返ったのが本章である。教養と信念のある急進的な上司を持ち、Devadas等の優秀な同僚に囲まれて過ごした十数年間は、インドの独立運動絶頂期とも重なっており、彼をジャーナリストとして大きく成長させたという。特に当時の経営面に関する言及が多く、退職に至った理由は察するに余りあるが、経営史料としても興味深い一章となっている。

 第4章は1950~70年代にかけてインドの下院議員を務めたジャーナリストInder Jitが、自身の父Durga Dasについて語っている。Durga Dasとは、本書の第1章でも言及があるが、1944年に加入して以来ヒンドゥスタン・タイムズに多大な影響を残したジャーナリストの一人である。業界で「ニュースゲッター」*5の異名を持ち、自らも「世界のニュースマン」*6と称するほど報道に貪欲だったDurga Dasは、もともとイギリス系資本の新聞社ステイツマン紙(Statesman)に勤めていたが、ナショナリスト新聞を編集したいという強い信念を持ってヒンドゥスタン・タイムズに移ってきた。Devadasと共に管理職に任命され、第3章著者Sham Lalの退職理由の一つでもあった人員不足の解消に尽力した*7。Durga Dasは自伝*8を出版しており、そこでもヒンドゥスタン・タイムズでのエピソードがしばしば見られるが、本章ではDurga Dasのナショナリスト的な側面を客観的に描き出しており、自伝におけるDurga Dasの行動の論理がよく分かるものとなっている。

 このように、ヒンドゥスタン・タイムズはビルラ財閥による買収以降、様々な人物を巻き込んで大きく成長を遂げていったが、G.D.ビルラが新聞産業に参入した経緯については実のところよくわかっていない*9。しかし、G.D.はイギリスからの検閲や圧力を避けるために、ヒンドゥスタン・タイムズへの出資に関する記録をあえて残してこなかったことが本書の第1章で示唆されていることから*10、ヒンドゥスタン・タイムズの公になっていなかった過去を4人の著者が語るこの第1部は、ヒンドゥスタン・タイムズの歴史を語る上で最も貴重な史料となり得るであろう。もちろん、各々著者のバイアスは存在するであろうが、本書でしか知り得なかった情報があったことも事実である。この第1部を基に、ヒンドゥスタン・タイムズの創刊から企業としての成熟までについてわかってきたことを、後にまとめていきたい。

 さて、対する第2部「ヒンドゥスタン・タイムズを通して見た歴史」は全2章からなるが、このうち第2章は現代表取締役のShobhana Bhartia(K.K.ビルラの娘)による簡潔な経営戦略の振り返りと、今後の展望がわずか7ページで述べられているに過ぎず、大部分はジャーナリストのArvind N. Dasによる第1章によって占められている。そしてこの第1章は、第2部のタイトルの通り、ヒンドゥスタン・タイムズに携わったジャーナリストから見たインドの歴史であり、やや冗長な歴史叙述が続く。時折ヒンドゥスタン・タイムズの記事を参照してはいるが、基本的には従来のナショナリスト史観による通史とあまり代り映えがしない印象であった。ところどころ当時の記事の魚拓が掲載されているという意味では、史料としての価値を見出すことも可能であろう。

 しかし、ヒンドゥスタン・タイムズの社史という側面を重視すると、第2部はバイアスを持ったインドの通史の一つに過ぎず、個人的な関心としてはやや蛇足に感じた。本書のコンセプトを鑑みると、掲載の意義はあまり見出せず、第2部第1章のみを分離してArvind N. Dasによるインドの通史として出版してもよかったかもしれない。

 以上見てきたように、ヒンドゥスタン・タイムズの社史という観点からは、第1部収録の4編による貢献が大きい。特に黎明期に関しては一次史料も乏しく、現状本書の叙述が最もよくまとまった二次史料と言えよう。したがって、創刊からG.D.ビルラが本格的に経営に関与し始める1930年代までの黎明期を、他文献を踏まえて描きなおすことは歴史的意義があると思われる。以下に本書で語られている黎明期のヒンドゥスタン・タイムズを紹介した上で、さらなる調査が必要な情報をまとめていきたい。

 

2.ヒンドゥスタン・タイムズの黎明期

 本節は特に注釈がない限り本書からの要約である。注釈をつける場合は、補足的に他文献から得た情報を追加する。

 ヒンドゥスタン・タイムズはシク教徒系政党のアカリ・ダル党から始まった新聞である。しかし、当時のシク教徒がインド国内でも少数派であったことから、創刊前の企画の段階で使用言語、紙名、流通地域、資金調達の問題に直面していた。

 まず、使用言語についてであるが、アカリ・ダル党の現地語がパンジャーブ語である一方で、当時のインドで新聞に使用されていた言語は英語が圧倒的であった。また、新聞読者層も英語話者が多かったことから、パンジャーブ語ではなくあえて英語での発刊を目指すこととなった。本書では、使用言語として英語を選択したことは、当時としては独創的な考えと評しており、実際1950年代になるとインドの新聞の言語別発行部数は相変わらず英語が圧倒的であった*11ことから、この選択は先見の明があったと思われる。また、アカリ・ダル党は英字新聞が独立運動家とのコミュニケーション・ツールになり得るとも考えていた。英語で反イギリス的な論説を発信することによって、国民会議派などのナショナリストとの紐帯を築くことを期待していたのである。

 紙名は当初、ザ・タイムズ(The Times)という平凡なものが考案された。しかし、この紙名は当時ボンベイ一帯で流通していたタイムズ・オブ・インディア紙に類似するとして苦言を呈され、一度はデリー・タイムズ(The Delhi Times)に改名した。ところが、この紙名はイースターン・タイムズ紙(The Eastern Times)を発刊している西洋人たちに大きく反対され、ヒンドゥスタン紙(Hindustan)へと変更することが計画された。しかしながら、この紙名もすでにウルドゥー語の週間紙として存在していたため、熟慮を経てヒンドゥスタン・タイムズという紙名に落ち着いた。

 当初の流通地域はアカリ・ダル党のおひざ元であるラホール(Lahore)が検討されていたが、このときラホールにはすでにトリビューン紙(The Tribune)とシヴィル&ミリタリー・ガゼット紙(The Civil and Military Gazette)が有力紙として存在しており、とてもではないが入り込む余地がなかった。特にトリビューン紙との競合を避けたかったアカリ・ダル党は、ラホールからやや東のアムリットサルに着目するが、人口が少なく、英字新聞の市場もないことが分かると、ここも断念せざるを得なかった。3番目の候補としてデリーが挙がり、首都であること、有力なナショナリスト系日刊紙がいまだ存在しないことを決め手として、流通地域はデリーに決まった。

 ただし、資金面では更なる苦戦を強いられた。そもそもヒンドゥスタン・タイムズはイギリス支配に抵抗する目的で立ち上げられたメディアであったため、イギリス支配下のインド(しかも首都のデリー)で公然と出資を募ることは憚られたのである。そのため、アカリ・ダル党は初期費用の出資をカナダやアメリカ合衆国に移住していたシク教徒に求めた。20世紀初頭当時、多くのシク教徒が出稼ぎ労働者として北米へと渡っており、現地ではガダル党という組織を立ち上げ、海の向こうからインドの独立運動を支援していた*12。このガダル党の代表者ララ・ハルダヤール(Lala Hardayal)がヒンドゥスタン・タイムズ最初の出資者であったと言われている。

 このようにして、使用言語、紙名、流通地域、資金調達の問題を乗り越えたヒンドゥスタン・タイムズは、1924年9月に創刊に漕ぎつけた。このころにはすでにアカリ・ダル党は国民会議派と懇意にあったようで*13、創刊セレモニーはガンディーをゲストに迎えて行われた。出資者であったカナダのシク教徒たちは、アカリ・ダル党のMangal SinghとChanchal Singhに経営を委任し、この2人はK.D. Kohliという若きシク教徒運動家にオフィスなどの環境構築を任せた。しかし、創刊から半年と経たずにヒンドゥスタン・タイムズは財政難に直面し、売却を余儀なくされる。どうやら当初は350部を無料配布していた一方で、有料発行部数はわずか20部に過ぎず、事業として破綻していたようである。

 買収に意欲を示したのは、初代インド首相ジャワハルラール・ネルー(Jawaharlal Nehru)の父モーティラル・ネルー(Motilal Nehru)と国民会議派内で進歩的な活動を展開していたマダン・モーハン・マラヴィヤ(Madan Mohan Malaviya)の2人であった。最終的にG.D.ビルラと国民会議派の同僚ラージパト・ラーイの支援を得たマラヴィヤが、1925年3月にヒンドゥスタン・タイムズを落札した*14。当時のマラヴィヤは自身の独立運動を盛り上げるために全インド的な新聞を欲しており*15、ヒンドゥスタン・タイムズの競売は彼にとって絶好の機会であった。

 買収後のヒンドゥスタン・タイムズはマラヴィヤを含む4人の国民会議派による共同所有という形を取ったが*16、実質的にはマラヴィヤが実権を掌握していた。マラヴィヤは時折自ら筆を執り、自身の主張や思想を記事に反映させたという*17。一方で、経営実務は引き続きKohliが続投することとなった。Kohliの調査により、前述の事業として破綻していた状況に加え、ヒンドゥスタン・タイムズの様々な問題点が浮かび上がってきた。まず、販売形態が夕刊紙であったことは大きなデメリットであった。当時のインドの新聞読者層は、朝の通勤時に新聞を購入することがほとんどで、夕刊紙はごく限られた読者層にしか購入されなかった。「より多くの読者に届くように」という理由で英字新聞にした意味がまるでなかったのである。

 また、編集者が絶対的に不足していることも分かった。当初の編集者は、ガンディーの紹介でカルカッタ大学歴史学教授から転身したK.M. Panikkarただ一人であった。おまけにこのPanikkarが原稿の締め切りをまったく守らなかった。そこで、ラージパト・ラーイの紹介で新たに迎え入れた編集者が米国ミシガン大学でジャーナリズムの修士課程を修めたJ.N. Sahniであった。KohliとSahniのタッグによる体制が、以降のヒンドゥスタン・タイムズを大きな飛躍へと導くこととなる。

 Sahniは裁判官の父に影響を受けて幼いころから独立運動に参加していた急進派で、後にヒンドゥスタン・タイムズの売上を爆発的に伸ばした立役者である*18。しかし、編集者として優秀であった彼も、当初は夕刊紙であることがネックとなり苦戦した。そこでKohliはSahniの高いコンテンツ力を十二分に発揮するためにも、夕刊から朝刊に移行することを決意した。これは当時のヒンドゥスタン・タイムズの貧弱な設備では極めて困難を伴ったが、以下のようにいくつかの工夫を凝らすことで実現させた。

 まず、夜間労働者を雇うことで朝刊配達の人出を確保した。また、地方版を作成することで、デリーのみならず周辺地域への流通拡張を試みた。ただし、競合他紙のように僻地への進出を狙うのではなく、あくまでも都市部でのシェアを奪うための地方版であった。他紙の入り込みが甘い遠方地域(例えば連合州の都市メーラト等)については、夜間タクシーを利用することで確実に翌朝までに朝刊を届けることを徹底した。他紙より安価な価格設定も手伝って、着実にヒンドゥスタン・タイムズのシェアは拡大していった。

 一方でSahniは紙面の改革を進め、コンテンツ力を高めることに余念がなかった。当時のインドの新聞紙面は、ロンドン発のタイムズ紙(The Times)を参考に第一面に広告を掲載していたが、Sahniは米国の大学で学んだ経験を活かし、第一面に重大ニュースを配置するアメリカ式の紙面構成を取り入れた。この構成は一覧性の高さが読者から評価され、やがて他紙も追従するモデルとなる。また、社説の短文化やカラム数(段組数)を増加することで読者の視点移動を最小化するなど、随所の配慮が当時としては画期的で、大きな反響を呼んだ。

 KohliとSahniの改革によってヒンドゥスタン・タイムズの発行部数は大きく伸びたが、一方で紙代と設備費用が財政を逼迫し始めた。そこで、指揮を執るマラヴィヤは1925年8月に再びG.D.ビルラを頼ることにした。当時のG.D.は新聞産業に関心を持ってはいたものの、ヒンドゥスタン・タイムズに関しては財政状態に難があるとして、投資にあまり積極的ではなかった。しかし、マラヴィヤの熱心な説得によって、最終的には追加出資に応じている。こうした断続的な支援の甲斐あって、ヒンドゥスタン・タイムズは1926年9月に株式会社ヒンドゥスタン社(The Hindustan)としての登記に成功した*19

 先に述べたように、G.D.はヒンドゥスタン・タイムズへの出資に関する史料をあまり残してこなかったという。それはヒンドゥスタン・タイムズにG.D.が関わっていることをイギリス側に悟られると、厳しい検閲に晒される可能性があることを考慮してのことであったという。そのため、G.D.が最終的に追加出資に応じた意図は正しく図りかねるが、ヒンドゥスタン・タイムズの活動には敬愛するガンディーの影が常にちらついていたことが理由の一つとして推測されている。

 事実、G.D.はマラヴィヤに対してあまり良い感情を抱いていなかった。当時のヒンドゥスタン・タイムズにはマラヴィヤの政治信条が少なからず盛り込まれており、G.D.はそのことに不信感を抱いていた*20。G.D.のヒンドゥスタン・タイムズへの出資に関する史料は全く残っていないというわけでない。例えば、ヒンドゥスタン社の1926年の会計報告書を見ると、G.D.による出資の軌跡をわずかながら辿ることができる。この会計報告書には、マラヴィヤがラージパト・ラーイの伝手でパンジャーブ国立銀行から借り入れた40,000ルピーに加え、様々な組織からの寄付金が合計26,726ルピー計上されている。この寄付金は、「ヒンドゥスタン社が有限会社となった場合に株主になれる権利」をリターンとして集められたもので、寄付者の中で最大の出資者はG.D.所有のビルラ紡績(Birla Mills)であった。また、G.D.とガンディーとの書簡の中で、ヒンドゥスタン・タイムズへの出資に関する記述がただ一つ存在するという。1927年10月11日の書簡にて、G.D.はガンディーに向けて「尊敬していたマラヴィヤ氏はいまやいない。来年は彼に50,000~100,000ルピーをあげられるだろう」と書き残している。その後、1928年にG.D.はマラヴィヤから89,252ルピーでヒンドゥスタン社を買収し、有限会社ヒンドゥスタン・タイムズとして新生させている。すなわち、上記書簡の金額は買収額を表していたのである。

 このようにして、ヒンドゥスタン・タイムズは正式にビルラ財閥傘下の新聞社として再発足した。株主にはマラヴィヤも名を連ねたが、彼以外の株主が100ルピー/株の株式を計989株所有していたのに対し、彼は500ルピー/株を5株の所有しか認められなかった。一方、G.D.はビルラ紡績名義で480株を所持していた。

 不遇な扱いを受けながらも株主としてヒンドゥスタン・タイムズに留まることとなったマラヴィヤは、以降も幾度となくヒンドゥスタン・タイムズを自身の政治活動に利用しようと試みた。G.D.に対して、ヒンドゥスタン・タイムズのすべてを自身に委ねるよう、常々迫っていたという*21。一方、G.D.はマラヴィヤの好きにさせまいと1931年頃から本格的に経営に関与し始め、ベテラン業界人のPothan Josephやガンディーの息子Devadasを編集部に迎え入れるなど、人事権を掌握した。結局、マラヴィヤはこの世を去る1946年までヒンドゥスタン・タイムズに居座り続けることとなる。途中、マラヴィヤによる偏向的な論調が社内で物議をかもす場面もあったが、その際には代表のG.D.自ら辞任を考えたこともあったことから、マラヴィヤを追放するという選択肢はなかったようである。

 マラヴィヤ体制の事実上の終了に加えて、1930年代はヒンドゥスタン・タイムズにとってもう1つの終わりを迎えた時代でもあった。初期から新聞を支えてきたKohliとSahniによる体制の終焉である。1920年代後半からガンディーの第二次非協力運動が始まったことをきっかけに、1930年、アーウィン総督は政権批判を行った新聞やその他出版物を発刊禁止とする条例を制定した。新聞・出版物に検閲を行い、言論統制を敷いたのである。ヒンドゥスタン・タイムズはこれに対する抗議のために発行をボイコットし、その間KohliやSahniは反英運動に励んだ。この運動がナショナリスト層から絶大な支持を受け、発刊が再開されるとヒンドゥスタン・タイムズは大きく発行部数を伸ばした。しかしながら、時期を同じくしてKohliとSahniはヒンドゥスタン・タイムズと袂を分かつこととなる。

 決別の理由は大きく3つあった。まず、検閲を経てG.D.ら経営陣は報道内容に関して安全策を取るようになった。G.D.やマラヴィヤら国民会議派にとって、ヒンドゥスタン・タイムズは独立運動の要であり、イギリスの検閲のためにこのメディアを失うことはデメリットの方が大きいと考えていた。また、1931年にガンディー=アーウィン協定が締結され、非協力運動が調停されたことも、KohliとSahniにとってはあまりおもしろくなかった。KohliとSahniは自らを「政治的リスク」と称するほどの急進派であったため、上記のようなG.D.や国民会議派日和見的・譲歩的な姿勢を「生ぬるい」ものと感じ始めたのである。特にガンディー=アーウィン協定の締結にはG.D.の貢献も大きく*22、政治信条において根本的なすれ違いを露呈することとなった。

 こうしてKohliとSahniは1932年にヒンドゥスタン・タイムズを退職、ナショナル・ジャーナル社を設立し、ナショナル・コール紙(National Call)とナヴユグ紙(Navyug)を手掛けることとなる*23。とはいえ、離別の理由はなにもネガティブなものばかりではなかったようである。Sahniは自身の自伝において、ヒンドゥスタン・タイムズの成長によって、1930年代にはもはやG.D.の新たな支援に頼る必要がないほど経済的に充実していたことを語っている*24。すなわち、2人はヒンドゥスタン・タイムズでの7年間の勤務を経て、独立起業するための資金を蓄えることができたのである。とはいえ、G.D.やマラヴィヤと経営体制の面で方向性の違いがあったことも事実であり*25、2人のヒンドゥスタン・タイムズ脱退には概ねネガティブな理由の占める割合が大きかったと言えそうである。

 かくして、1925年から続いたKohliとSahniによる経営体制が終わりを告げ、ヒンドゥスタン・タイムズはビルラ財閥による経営体制へと完全移行する。以降、G.D.や国民会議派の伝手を辿って、Sham LalやDurga Dasといった名だたる敏腕ジャーナリストがヒンドゥスタン・タイムズの制作に携わり、同紙は現在に至るまで多くの読者から評価され、愛読されてきた。部数を伸ばし続ける間も、イギリス資本の他紙と比べると人員や給与に関する問題は多く存在したが、初期と比べると遥かに充実した環境を手に入れ、国民会議派の声を代弁するメディアとしてインドの独立に寄与した。つまり、KohliとSahniによる体制の終焉は、ヒンドゥスタン・タイムズが経済的にも政治的にも次のステージに向かったことを意味する。これらのことから、評者が本書の第1部から分かったことの総括として、1924年の創刊からKohliとSahniが脱退する1932年までを「ヒンドゥスタン・タイムズの黎明期」として定義したい。

 

3.本書に欠けている情報

 本書で扱われているヒンドゥスタン・タイムズの歴史は、上記で評者が定義した黎明期だけに限らない。ただし、本書は特に資料が少ないと思われる黎明期の状況を、当事者たちによる筆致で描き出していることから、本稿では黎明期の叙述が特に貴重な史料たり得ると考え、そこにフォーカスして紹介した。KohliとSahniの脱退後もヒンドゥスタン・タイムズは様々な困難と繁栄を繰り返し、現在に至るまで生き残り続けているということは、もちろん忘れてはならない。

 しかし、そんな本書でも黎明期に関して欠けている情報がまだまだ存在することは事実であろう。第2節で随時注釈を付してきた箇所もこれに該当するが、より根本的な部分で明らかにされていない情報がどうやら存在するようである。以下では、そうした今後の調査の課題と言える論点を3つ紹介しよう。

 まず1点目は、ヒンドゥスタン・タイムズがマラヴィヤに買収される以前、アカリ・ダル党によって所有・運営されていたときの経営者についてである。先に述べたように、本書ではヒンドゥスタン・タイムズ発足当初の経営はアカリ・ダル党のMangal SinghとChanchal Singhに委ねられたとされている。しかし、Wikipediaのヒンドゥスタン・タイムズのページを参照すると、設立者としてSunder Singh Lyallpuriという人物の名前が挙げられている*26。ソースを辿ってみると、ビハール・ウルドゥー・ユース・フォーラム(Bihar Urdu Youth Forum)というウルドゥー語公用語化運動の一環として開催されるようになったイベントのホームページにおいて、過去にヒンドゥスタン・タイムズの紹介ページを設けていたようで、それがアーカイブとして確認できるというものであった。

 また、同じくWikipediaにおいてSunder Singh Lyallpuri自身のページを参照してみると、ヒンドゥスタン・タイムズとの関係が個別項目として語られていた*27。引用元を確認すると、イギリス資本系英字新聞であるトリビューン紙(The Tribune)の記事とMeri Aap Beetiという著述家による未刊行文献を参照して書かれたようであった。残念ながら現状これらのソースを確認する術が評者にはなく、フリー百科事典という特性上これらの情報を鵜呑みにすることはできないが、Sunder Singh Lyallpuriとヒンドゥスタン・タイムズの間に何らかの関係があったことは十分に推測された。

 そこで、Sunder Singh Lyallpuriの名前が挙げられているインド史の先行研究を精査したところ、この人物がやはりヒンドゥスタン・タイムズと近い距離にいた可能性が示唆された。Lyallpuriはヒンドゥスタン・タイムズ創刊前にはすでに雑誌や新聞における言論活動に積極的に関わっていた。例えば、1909年にはKhalsa Sewakという雑誌で、当時のイギリス政府を痛烈に批判する記事を執筆している。これは、ヒンドゥー教徒ムスリムに遅れを取るまいと構想されたKhalsa Collegeというシク教徒のための教育機関が、政治利用目的でイギリス政府に運営委員会をジャックされたことに対する非難を綴った記事であった*28。Lyallpuriはその直後に発刊したKi Khalsa College Sikhan Da Haiという刊行物においてもこの事件を取り上げており、こうした彼の言論活動がシク教徒内における反植民地的文化の成長に寄与したという*29

 また、1920年にはラホール地方でAkaliというパンジャーブ語の新聞を、後のヒンドゥスタン・タイムズ初代経営者のMangal Singhと共に立ち上げている。この新聞は、当時のシク教徒がヒンドゥー教徒ムスリムに比べると少数派で、イギリス政府から不当な扱いを受けていたことをきっかけに始まった。Akali紙は瞬く間に急進派シク教徒の間で人気を博した*30ことから、LyallpuriやMangal Singhはコミュニティ内でもカリスマ的存在であったことが伺える。

 このように、Sunder Singh Lyallpuriは20世紀初頭からすでに新聞・雑誌等を用いた反英的な活動に携わっており、シク教徒のコミュニティ内でもリーダー的存在として信頼を得ていたようである。さらに、Akali紙創刊と同年の1920年に、Lyallpuriらの急進的な思想は国民会議派とも結合していく。ラージパト・ラーイの仲介を経て、Lyallpuriらとガンディーとの間で会談の機会が設けられたのである。そこでガンディーは、Lyallpuriらの宗教観や非暴力・非協力的な思想に共感を示している*31

 同僚のMangal Singhが本書において初代経営者として紹介されていることや上記の経緯を鑑みると、Sunder Singh Lyallpuriがヒンドゥスタン・タイムズの創刊に関わっていたとしても何ら不思議ではない。しかし、本書にはLyallpuriの名前は一度たりとも挙げられておらず、調査の余地があるものと考えられた。すなわち、ヒンドゥスタン・タイムズの創刊当初の歴史を明らかにするためには、シク教徒コミュニティの文脈からアプローチする必要が生じる。

 2点目の課題は、史料の再精査である。先に述べたように、本書によるとG.D.ビルラによるヒンドゥスタン・タイムズ出資に関する史料はほとんど残されていない。しかし、第2節でも補足してきた通り、1925年3月のマラヴィヤによる買収時にはすでにG.D.が関与していたことや、1925年8月の追加出資のくだりは、Kudaisyaの研究によって比較的詳細に明らかにされている。Kudaisyaが2003年に著したG.D.ビルラの評伝は、初めてG.D.ビルラ・ペーパー(G.D. Birla Papers:G.D.ビルラによるプライベート書簡)が一次史料として用いられた、現状最も新しく詳しい評伝となっている*32。1925年3月、1925年8月いずれの出資についても、G.D.とマラヴィヤとの間の書簡が参照されており、本書の出資の議論をさらに深く掘り下げていると言えよう。

 Kudaisyaの研究は本書よりも後に上梓されていることから、G.D.ビルラ・ペーパーが整備されたことによって新しい史料が見つかったということになる。したがって、ヒンドゥスタン・タイムズの研究はG.D.ビルラ・ペーパーを用いることによって、さらなる進展が期待できよう。ただし、KudaisyaによるとG.D.ビルラ・ペーパーにも限界がある。史料の多くは1920年代後半から1960年代にかけてのもので、1920年代前半以前の史料は特に少ないという*33。そのため、ヒンドゥスタン・タイムズ創刊からマラヴィヤによる買収に至るまでのG.D.の関わりや、そもそもなぜG.D.が新聞産業に関心を持ったかについては、G.D.ビルラ・ペーパーのみでは解明が難しい可能性もある*34

 そこで、3点目の課題として挙げられるのが、マラヴィヤの重要性である。そもそも1925年から1928年まで、ヒンドゥスタン・タイムズは事実上マラヴィヤの所有のもとに運営されていた。したがって、アカリ・ダル党からの買収過程についてはマラヴィヤに関連する史料も参照し、多角的視野で検討すべきであろう。ネルー記念博物館・図書館(Nehru Memorial Museum & Library, New Delhi)のOPAC*35にて所蔵史料を検索すると、マラヴィヤを創始者(founder)としたヒンドゥスタン・タイムズのマイクロフィルムが821件所蔵されていることが分かった。この中には、1924年に関するものが1件、1925年に関するものが2件、1926年に関するものが3件、1927年に関するものが3件と、マラヴィヤ所有時代の史料が計9件認められた。これらは残念ながら現地での開示が必要なため、実物の確認はできていないが、マラヴィヤの名が関連付けられていることから、一見の価値はあるように思う。

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Nehru Memorial Museum & Library Koha OPACにおけるヒンドゥスタン・タイムズ関連マイクロフィルム

 また、先に述べた通り、マラヴィヤは1928年に実質的な経営権をG.D.によって取り上げられるが、1946年に死去するまでヒンドゥスタン・タイムズに関与し続けている。この間、G.D.やガンディーとヒンドゥスタン・タイムズをめぐって何度もトラブルがあったにもかかわらず、なぜG.D.は独断的なマラヴィヤを追放することができなかったのだろうか?これには、マラヴィヤがヒンドゥスタン・タイムズを買収された後も、ある程度影響力を維持していた可能性が考えられる。事実、1929年3月15日に開催されたヒンドゥスタン・タイムズの取締役会では、依然としてマラヴィヤが議長を務めているし*36、1934年に取締役会・株主総会で議論になるまで、彼はヒンドゥスタン・タイムズ紙上で偏向的な報道を主導していたという*37。1931年頃から、G.D.による「マラヴィヤ下ろし」の流れは顕著となったが、実際には追い出せない理由があったものと思われる。この影響力の強さこそ、黎明期のヒンドゥスタン・タイムズを描き出すために不可欠な要素ではなかろうか。

 もともとマラヴィヤは、1886年に当時26歳という若さで新聞産業に参入し、ヒンドゥスタン紙(The Hindustan)というヒンディー語日刊紙で成功を収めた経験があった*38。つまり、ヒンドゥスタン・タイムズ創刊時にはすでに大ベテランだったということになる。実際にはヒンドゥスタン紙の空前のヒット後、間もなくしてマラヴィヤは一度新聞業界から身を引いているが、上記の実績が高い評価をうけていたことから、19世紀末~20世紀前半にかけての新聞業界におけるマラヴィヤの影響力にも注目すべきであろう。マラヴィヤと新聞産業の関係という観点からのアプローチによって、当時のインドの新聞業界の理解がより深まることが期待される。

 以上見てきたように、本書を核として、そこに先行研究と後続研究を補足的に考慮することで、「ヒンドゥスタン・タイムズの黎明期」を定義し、今後の研究課題を明確にすることができた。本稿は評者の史料アクセスの制約上、文献的考察のみにとどまった。現状、上に挙げてきた一次史料を調査できる術は評者にはないが、引き続き可能な範囲で調査を続けていきたい。

 

参考文献

・Birla, G.D., In the Shadow of the Mahatma: A Personal Memoir (Calcutta, 1953).

・Birla, Krishna Kumar., Brushes with History: An Autobiography (New Delhi, 2007).

・Das, Durga., India: From Curzon to Nehru and After (New Delhi, 1969).

・The Hindustan Times (Prem Shankar Jha, Arvind N. Das, Brinda Datta, et al.) ed., History in the Making: 75 Years of The Hindustan Times (New Delhi, 2000).

本書。

・Jaju, Ram Niwas., G.D. Birla: A Biography (Uttar Pradesh, 1986).

・Jeffrey, Robin., ‘Mission, Money and Machinery: Indian Newspapers in the Twentieth Century’, Institute of South Asian Studies (National University of Singapore) Working Paper, No.117 (2010), pp. 1-26.

・Kudaisya, Medha. M., The Life and Times of G.D. Birla (New Delhi, 2006).

・Misra, Jagannath Prasad., Madan Mohan Malaviya and the Indian Freedom Movement (New Delhi, 2016).

・Natarajan, J., History of Indian Jounalism (New Delhi, 1955).

・Ross, Alan., The Emissary: G.D. Birla, Gandhi and Independence (London, 1986).

・Sahni, J.N., Truth about the Indian Press (Mumbai, 1974).

・Singh, Joginder., ‘The Sikh Gentry and Its Politics in the Post-World War I Period’, Proceedings of the Indian History Congress, 53 (1992), pp.440-448

・Singh, Joginder., ‘Formative Phase of National Movement Among the Sikhs’, Proceedings of the Indian History Congress, 54 (1993), pp.421-427.

・Singh, Kashmir., ‘Managing Committee of the Khalsa College Amritsar: Its Relations with British Government’, Proceedings of the Indian History Congress, 44 (1983), pp.392-398.

秋田茂、細川道久『駒形丸事件─インド太平洋世界とイギリス帝国』筑摩書房、2021年。

 

Webサイト

・Audit Bureau of Circulations India (インド部数公査機構:http://www.auditbureau.org/).

・Nehru Memorial Museum & Library, Koha OPAC (http://nehrumemoriallibrary.informaticsglobal.com/).

Wikipedia: The Free Encyclopedia (https://en.wikipedia.org/wiki/Main_Page).

 

*1:Audit Bureau of Circulations India, ‘Highest Circulated Dailies, Weeklies & Magazines amongst Members Publications (across languages)’, available at http://www.auditbureau.org/files/JD%202019%20Highest%20Circulated%20(across%20languages).pdf (accessed Jul. 29, 2021).

*2:Audit Bureau of Circulations India, ‘Highest Circulated Daily Newspapers (languages wise)’, available at http://www.auditbureau.org/files/JD%202019%20Highest%20Circulated%20(language%20wise).pdf (accessed Jul. 29, 2021).

*3:Audit Bureau of Circulations India, ‘Language wise certified figures for the audit period July December 2019’, available at http://www.auditbureau.org/ (accessed Jul. 29, 2021).

*4:Kudaisya, Medha. M., The Life and Times of G.D. Birla (New Delhi, 2006), p.61.

*5:本書、pp.33-34, 80.

*6:Jeffrey, Robin., ‘Mission, Money and Machinery: Indian Newspapers in the Twentieth Century’, Institute of South Asian Studies (National University of Singapore) Working Paper, No.117 (2010), p.23.

*7:Das, Durga., India: From Curzon to Nehru and After (New Delhi, 1969), pp.209-210.

*8:Ibid.

*9:Kudaisyaの考察によると、工業分野においてはジュート産業参入によって西洋資本の独占状態を打破した一方で、同じく西洋資本が支配的であった商業分野は新聞によってこれを打破しようと試みたのではないかという。また、当時の新聞読者層は知識人が主であったことから、新聞を用いたプロパガンダで商業界の知識人をコントロールすることを目論んでいたとも考えられている。しかし、これらはいずれもKudaisyaの憶測の域を出ない。Kudaisya, The Life and Times of G.D. Birla, pp.61-62.

*10:編集者とのやり取りはいくらか書簡が存在するが、出資に関する史料はほとんど残されていないという。Prem Shankar Jhaはこれを当時のイギリスとの関係から「慎重になった結果」と推測している。第2節で詳述する。本書、p.17.

*11:Jeffrey, ‘Mission, Money and Machinery’, p.15.

*12:シク教徒の北米移住およびガダル党については、秋田茂、細川道久『駒形丸事件─インド太平洋世界とイギリス帝国』筑摩書房、2021年、73~76、204~206頁が参考になる。なお、秋田らの研究では、ガダル党の拠点はオレゴン州ポートランドとされているが、本書やDurga Dasの自伝によると、サン・フランシスコが拠点とされており、やや情報が食い違う部分がある。Durga Das, India, p.109. 本書、p.3. シク教徒移民は北米の西海岸一帯に遍在していた可能性が高い。

*13:詳しくは第3節で後述するが、ヒンドゥスタン・タイムズ当初の経営者と目されるSunder Singh LyallpuriとMangal Singh(いずれもアカリ・ダル党)は国民会議派のラーラー・ラージパト・ラーイ(Lala Lajpat Rai)の仲介によって1920年にガンディーと会談の機会を設けており、お互いの思想や運動に共鳴している。Singh, Joginder., ‘The Sikh Gentry and Its Politics in the Post-World War I Period’, Proceedings of the Indian History Congress, 53 (1992), pp.445-446.

*14:本書では、マラヴィヤによる買収過程においてG.D.ビルラの名前は出てこず、あくまでその後の経営難を支えた人物として登場するが、Kudaisyaの研究によれば、買収過程ですでにG.D.ビルラの関与があったことが明らかとなっている。詳しくは本稿第3節で述べるが、取り急ぎ以下を参照。Kudaisya, The Life and Times, p.72.

*15:Ibid.

*16:マラヴィヤ、ラージパト・ラーイ、ナレンドラ・ナート(Narendra Nath)、M.R.ジャヤカル(M.R. Jayakar)の4人によって取締役会が構成された。Natarajan, J., History of Indian Jounalism (New Delhi, 1955), p.270.

*17:Misra, Jagannath Prasad., Madan Mohan Malaviya and the Indian Freedom Movement (New Delhi, 2016), pp.269.

*18:Sahni, J.N., Truth about the Indian Press (Mumbai, 1974), pp.91, 98; Jeffrey, ‘Mission, Money and Machinery’, p.9.

*19:Kudaisya, The Life and Times, p.72.

*20:Misra, Madan Mohan Malaviya, p.269.

*21:Ibid., p.270.

*22:1931年のガンディー=アーウィン協定におけるG.D.ビルラの貢献については以下が詳しい。Kudaisya, The Life and Times, pp.124-129.

*23:Natarajan, History of Indian Journalism, pp.270-271; Sahni, Truth About the Indian Press, p.106.

*24:Sahni, Truth About the Indian Press, pp.98.

*25:Ibid., pp.103-105.

*26:Hindustan Times (Aug. 25, 2021, 20:16 JST). In Wikipedia: The Free Encyclopedia. Retrieved from https://en.wikipedia.org/wiki/Hindustan_Times

*27:Sunder Singh Lyallpuri (Aug. 25, 2021, 20:43 JST). In Wikipedia: The Free Encyclopedia. Retrieved from https://en.wikipedia.org/wiki/Sunder_Singh_Lyallpuri

*28:Singh, Kashmir., ‘Managing Committee of the Khalsa College Amritsar: Its Relations with British Government’, Proceedings of the Indian History Congress, 44 (1983), pp.394-395, 397-398.

*29:Singh, Joginder., ‘Formative Phase of National Movement Among the Sikhs’, Proceedings of the Indian History Congress, 54 (1993), pp.425, 427.

*30:Singh, Joginder., ‘The Sikh Gentry’, p.443.

*31:ラージパト・ラーイはパンジャーブ地方の出身で、Lyallpuriらの活動拠点はいわば地元であった。そして、シク教徒コミュニティが共同出資で立ち上げたChief Khalsa Diwanという教育機関をめぐって、シク教徒内で内部紛争が生じた際に、分断の終息に一役買ったのがラージパト・ラーイであった。このときの繋がりが、Lyallpuriと国民会議派を引き合わせたのである。Ibid., pp.444-446.

*32:Kudaisya, The Life and Times, p.xi. これ以前のG.D.ビルラの評伝は以下の2冊が存在するが、いずれもG.D.ビルラ・ペーパーが整備される前の執筆となっている。Jaju, Ram Niwas., G.D. Birla: A Biography (Uttar Pradesh, 1986); Ross, Alan., The Emissary: G.D. Birla, Gandhi and Independence (London, 1986).

*33:Kudaisya, The Life and Times, p.xi.

*34:実際、KudaisayによるG.D.の評伝でもこの辺りの議論は言及が乏しい。

*35:Nehru Memorial Museum & Library, Koha OPAC, available at http://nehrumemoriallibrary.informaticsglobal.com/ (accessed Aug. 27, 2021).

*36:Birla, Krishna Kumar., Brushes with History: An Autobiography (New Delhi, 2007), pp.93-94.

*37:本書、p.40; Birla, G.D., In the Shadow of the Mahatma: A Personal Memoir (Calcutta, 1953), p.146; Misra, Madan Mohan Malaviya, p.6. 取締役会・株主総会での議論の結果、以降はマラヴィヤの政治信条に関係なく、中立的な報道を目指す方向でマラヴィヤ含め合意が得られた。

*38:Misra, Madan Mohan Malaviya, p.5.