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【本の感想】武井彩佳『歴史修正主義——ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで』中央公論新社、2021年、x+250頁

武井彩佳『歴史修正主義——ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで』中央公論新社、2021年、x+250頁

 2019年12月に中国の武漢市で発生したと言われる新型コロナウイルス感染症は瞬く間に世界中で流行し、2020年、2021年の人類の生活は大きな変化を余儀なくされたことは言うまでもない。実態のつかめない新たな病を媒介として、医学・政治・社会といった諸側面で様々な憶測が飛び交い、フェイクニュースという概念が巷間に広く知れ渡ることとなった。同時に、ファクトチェックの重要性も叫ばれるようになり、相反する主張を前にして根拠となる情報を提示する必要性がメディアでも呼びかけられた。

 しかしながら、根拠は提示さえすればよいというものではない。提示された根拠には誤りを含む場合もあるし、恣意的な情報の開示・排除・解釈によって事実を歪曲した主張を展開することも可能である。また、他者の主張を介さずとも、断片的な情報から自発的に誤った解釈をしてしまう可能性もある。悪意ある主張に加担しないようにするためには、慎重かつ総体的な情報の精査が求められるし、そしてこれは本来途方もない営みであろう。

 殊に歴史に関して恣意的な解釈や事実を歪曲した主張を展開することは、「歴史修正主義」と呼ばれる。「歴史の修正」と聞くと、すっかりネガティブな印象を与えるようになってしまったが、実はこの概念は元来、学術的な営みの一つである。新しい史料が発見され、新たな解釈が主流となる。これは歴史の修正に他ならず、より前向きな言い方をすると学術的な「新発見」とも言えるであろう。では、なぜ「歴史の修正」がネガティブなものと捉えられるようになったのか。「歴史の修正」とは、より広義にはどのような行為を指し、どのような問題点があるのか。そうした疑問をドイツの事例、特に歴史的タブーともいえるヒトラーをめぐる議論を中心として紐解くのが本書である。

 

本書の構成

はじめに

序 章 歴史学歴史修正主義

第1章 近代以降の系譜——ドレフュス事件から第一次世界大戦後まで

第2章 第二次世界大戦への評価——1950~60年代

第3章 ホロコースト否定論の勃興——1970~90年代

第4章 ドイツ「歴史家論争」——1986年の問題提起

第5章 アーヴィング裁判——「歴史が被告席に」

第6章 ヨーロッパで進む法規制——何を守ろうとするのか

第7章 国家が歴史を決めるのか——司法の判断と国民統合

おわりに

 
1.歴史修正「主義」とは?——主義(イズム)としての歴史の修正

 歴史と歴史学の違い。学生時代に歴史学を学んだ人なら嫌でも意識したことがあるだろう。主観の域を出ないが、学問としての歴史学を修めると、いわゆる「歴史好き」の人と話が合わないという場面に遭遇したことがある人は少なくないと思う。いわゆる「歴史好き」の人は歴史を一人の人間、一つの組織のドラマとして楽しむフシがあるが、歴史学の体系、方法、学説に触れてきた身としては、人類の歩んできた歴史はもっと悲惨で、無機質で、受け入れがたい現実にまみれている。

 思うに、私がこのような印象を抱く理由は近代以降の歴史学の方法に原因がある。近代歴史学の祖レオポルト・フォン・ランケ(Leopold von Ranke)は次のような方法で、過去を可能な限り正確に再現する実証主義的な歴史学を確立した。曰く、まず初めに史料を可能な限り集める。次に、史料の書き手が誰か、同時代の他の史料と突き合わせて矛盾する情報がないか、のちの時代に書き加えられた情報はないか…そうした観点でもって集めた史料を批判的に検討する。いわゆる「史料批判」である。そして、この史料批判に基づいて過去の事象や情勢について検証を重ねる。この手続きを経ることによって、歴史が「実際にいかにあったか」を記すことが可能になるという。

 簡単に書いたが、もちろん簡単なことではない。まず、初手の「史料を可能な限り集める」からしてハードルが高い。その後の史料批判が極めて骨の折れる営みであることは言うまでもない。しかしながら、過去を正確によみがえらせるにはこうした難関な手続きが必要なのだ。

 一方で、E.H.カー(Edward Hallett Carr)に言わせれば、過去の事象を完全に再現することは不可能である。カーはランケの確立した実証史学の方法を、「複数の手段を用いて過去の全体像を把握する試み」と理解した。これまた簡潔に説明するならば、ジグソーパズルに数ピースの欠けがあったとしても、遠くから眺めれば全体像が見えてくるというものだ。ピースが史料だとすれば、ジグソーパズルの完成図は歴史だ。たとえ史料の欠損があったとしても、様々な方法で検証することによって、完全にとは言わないまでも、ある程度歴史の実像に迫ることは可能である。

 いずれにせよ、歴史を再現するという営みは一筋縄ではいかない。歴史学は非常に手間のかかる手続きを要求される。しかもだ、苦労してよみがえらせた歴史が必ずしも感動物語として幕を閉じるわけではない。むしろ人間の愚かさを繰り返してはならないという教訓を得るのが大概である。もはや幼い頃に伝記漫画で触れてきた偉人像は、歴史学を学んだいまの私にとっては「修正」されてしまっている。

 さて、オチがついたところでいい加減に話を本筋に戻そう。すでに述べたように、「歴史の修正」は元来れっきとした学術的営みの一つであった。ここまで実証史学の方法を説明してきたことから、それはなんとなくわかってもらえるだろう。史料をその時点で可能な限り集めて歴史を紡いだとして、新しい史料が発見されると通説が覆る可能性がある。本書で話題となるヒトラーに関しても、従軍時代に関する彼の語りが虚言を含むものであったことが近年明らかになっているという。この場合、ヒトラーの従軍時代に関する通説が「修正された」と言える。「歴史の修正」とは単に歴史を見直す行為でもある。では、問題視される「歴史の修正」とは具体的にどのような現象を指すのだろうか。

 「歴史の修正」は概して政治体制の変化とともに登場する。私が学んできたイギリス史を例に考えると、19世紀までのイギリス史は自由主義進歩主義を基本とするホイッグ史観(Whig history)が主流であった。資本主義的発展を正義とする歴史観こそが正当であり、それ以外の歴史観歴史修正主義というレッテルを貼られた。ところが、19世紀末にイギリスでも社会主義運動が活発化すると、フェビアン協会労働党といった社会主義政党の設立を経て、E.P.トムスンやエリック・ホブズボームなどのマルクス主義的な歴史家も台頭し、労働者や民衆に着目した「社会史」の方法が流行する。新たな政治的イデオロギーの台頭と共に歴史学のメインストリームが変化したように、「歴史の修正」は政治による影響を受けるのである。するとどうだろう、歴史が政治に利用される可能性も考えられないか。時の政権が自党の政治的イデオロギーを正当化するために、そして不都合な事実を隠蔽するために通説を修正する。陰謀論めいているとも思われかねない言い方をしてしまっているが、実はそうした事象は後に説明するように人類史上しばしば見られてきたし、現代においても案外普遍的に見られるものである。歴史的事実を明らかにすることではなく、「歴史を修正すること」そのものが目的と化してしまう。すなわち、「歴史の修正」それ自体が「主義」(イズム)となってしまうと、そこに学術的誠実さを見出すことはできないであろう。

 

2.なぜ「歴史修正主義」が台頭するのか?——ドイツの事例から考える

 ここまでの議論をまとめると、歴史修正主義とは、主流派から新派に対して貼られるレッテルである場合もあれば、政治的イデオロギーの正当化のために歴史を修正することそのものを目的とする「主義」である場合もある。前者は広い意味で学術的文脈に位置付けることが可能な反面、後者は政治的領域での論争として現れることが多い。昨今、その有害性が注目されている「歴史修正主義」とは、後者のことを指す場合が多いと思われる。それでは、なぜこのような「主義」が台頭してしまうのか。

 特にドイツでは、第一次世界大戦の開戦原因を巡る国際的な論争において、歴史修正主義の定型が登場したと言われている。第一次世界大戦講和条約であるヴェルサイユ条約は開戦原因をドイツとその同盟国に求め、イギリスやフランスは「戦争に巻き込まれた立場」と規定した。多額の賠償金の支払いに疲弊したドイツは、外務省の総力を挙げて「戦争原因研究本部」を立ち上げ、開戦原因の「修正」を試みた。19世紀のドイツ帝国成立時まで遡り、当時の英仏による対独包囲網政策の存在を強調するなど、戦争責任論に真っ向から対抗する姿勢を示した。起こったことはなかったことにはできないが、解釈を変更することはできる。国際社会での名誉回復という政治的な利益を追求して、ドイツは歴史の修正を試みたわけである。

 こうしたドイツの「解釈の修正」を支持したのは、ドイツ国内の人間のみではなかった。アメリカの歴史社会学者ハリー・エルマー・バーンズ(Harry Elmer Barnes)は、もともとアカデミアで正当に評価されていた歴史家であったにもかかわらず、反権力・反ユダヤ主義的な陰謀論に傾倒し、第一次世界大戦の開戦原因をアメリカに責任を求める形で修正しようと試みた。歴史家が歴史修正主義者となってしまった一例である。かの歴史家を魅了したのは、「権力によって隠された真実がある」という考えに他ならない。歴史修正主義の動機は政治的利益の追求のみならず、陰謀論の影響を受けた結果という側面もある。そして、後述するように陰謀論反ユダヤ主義と結びつくことが多い。

 第二次世界大戦が終わると、歴史修正主義の波はより多くの地域を巻き込んでいく。ニュルンベルク裁判においてナチズムによる戦争犯罪が認定されると、ドイツは再び歴史の修正を試みた。なぜ過去を修正したいのか。それは、歴史が「国民にとって共通の物語」たり得るからである。国際関係の文脈で、国家の歩んできた歴史は重要である。産業革命や経済発展などを拠り所とする「誇れる歴史」を持つことは、国際社会での地位向上や発言権にもつながる。逆に、国際的な問題で責めを負うようなネガティブな歴史を持つことは、端的に行って恥である。特に第二次世界大戦におけるドイツのナチズムは、ユダヤ人を中心とした多くの犠牲者を生み出し、国際的に「負の歴史」として認知されてきた。そこで、ドイツでは「自国の物語」を「負の歴史」としないためにも、「誇れる歴史」として歴史解釈を変更しようとする勢力が登場することとなる。その典型例が「ホロコーストはなかった」という言説、いわゆるホロコースト否定論である。

 そして、このホロコースト否定論は実はフランスに起源があった。フランスは1940年にドイツに敗北して以降、ヴィシー政権下でナチ・ドイツの傀儡としてホロコーストに加担してきた過去がある。ホロコーストが重罪として裁かれるのであれば、フランスが白い目で見られるのも必然である。そのため、ホロコーストの存在を否定することによって、自国の免罪を試みる勢力がフランスで登場した。フランスには伝統的に反ユダヤ主義的な潮流も少なからず存在し、そうした勢力にとってもホロコースト否定論は都合が良かった。

 ニュルンベルク裁判では、ホロコーストを含むドイツの行ってきた戦争犯罪は、証明する必要のない明白な事実、すなわち「公知の事実」と位置付けられた。「公知の事実」に則れば、「ホロコーストはなかった」と主張するホロコースト否定論はこれと真っ向から対立する戯言である。しかし、裁判において明白な証拠として採用される「公知の事実」が覆ることも歴史上もちろんあった。同じ第二次世界大戦で起きたカティンの森事件は、当初ドイツによる虐殺の一例として考えられてきたが、研究や捜査が進むにつれてソ連の仕業であることが証明された。すなわち、「公知の事実」が揺らぐ可能性もゼロではないのである。

 そして、歴史修正主義者の狙いはこの「公知の事実」に繰り返し疑念を投げかけ続け、民衆の認識の揺らぎを呼び覚ますことにある。断片的な情報でもってホロコーストは実は存在しなかった「可能性が高い」、敗戦国を貶めるための戦勝国による捏造「なのではないか?」など、これらを決して立証することはせず、「公知の事実」が疑わしいと思われる流言をひたすら発信し続ける。こうすることによって、徐々に歴史修正主義の支持を拡大させていくのである。

 

3.ホロコースト否定論への発展——「歴史修正主義」と「歴史の否定」の違い

 「慰安婦は自由意志に基づく娼婦であった」、「南京大虐殺はなかった」といった言説は、日本では「歴史修正主義」の一つとされる。しかしながら、欧州ではこのような言説は歴史修正主義とは一線を画す「歴史の否定」として明確に区別されている。もちろん、「歴史の否定」の方がその有害性は高いと認識される。したがって、ホロコースト否定論も本場欧州では歴史修正主義と区別して議論されてきた。なぜならば、歴史修正主義は「解釈の修正」に過ぎない(この言い方はあまり適切でないかもしれないが)のに対し、ホロコースト否定論は「起こったこと」を「なかったこと」にしようとする一種の陰謀論だからである。

 ホロコースト否定論は欧米の人種主義的価値観、すなわち反ユダヤ主義を温床として1970年代に成長した。先に述べたドイツおよびフランスの免罪の意図もあるが、代表的なホロコースト否定論者は漏れなく反ユダヤ主義者であったことが示唆されている。反ユダヤ主義はもはや論理の枠組みを外れた「政治的宗教」である。したがって、この「政治的宗教」に立脚したホロコースト否定論を論破することは困難を極める。

 ホロコースト否定論は歴史学にとっていわば「厄介な相手」であったが、当初、多くの歴史家が「学術的なレベルに達していない主張」として無視を決め込んだ。論理的でないものを論理的に説き伏せることに意義はない。悪意を持ったアンチは相手にするだけ時間の無駄というわけだ。そうしてしばらくの間、歴史家はホロコースト否定論を野放しにしてきたが、この態度がやがて歴史家自身の首を絞めることとなる。

 カナダでホロコースト否定論者として熱心に活動していたエルンスト・ツンデル(Ernst Zuendel)は1985年にカナダのホロコースト生存者団体から起訴された。通称ツンデル裁判と呼ばれるこの裁判は、欧州とは異なりホロコーストを「公知の事実」として扱わなかった。すなわち、歴史家たちはホロコーストの存在を再度立証することが求められたのである。結果的にツンデル側が虚偽の史料を持ち出し、自爆する形で敗訴することとなったが、「公知の事実」概念が採用されなかったことで、証拠を捏造する証人と実証主義の歴史家が同列に発言の機会を与えられるという、歴史学にとって屈辱的な経験となった。また、ツンデル側の敗訴によりホロコースト否定論の有害性が国際的に喚起されることとなったが、その一方でメディアによる拡散はホロコースト否定論の新たな支持者を発掘する結果となった。

 歴史学を襲った危機はツンデル裁判だけでない。1996年に始まったアーヴィング裁判では、歴史家が被告席に立たされることとなる。イギリスの著述家デイヴィッド・アーヴィングは、戦争を題材にした歴史小説で人気を博した在野の歴史家である。ベストセラー作家であった彼も、1977年に『ヒトラーの戦争』を発表して以降、ホロコースト否定論者へと変貌を遂げてしまう。そんなアーヴィングは、アメリカの歴史家デボラ・リップシュタットに「危険な否定論者」と名指しで酷評されたことをきっかけに、リップシュタットとペンギンブックス出版を名誉棄損で訴えたのである。イギリスの名誉棄損裁判は通例、起訴された側が自説の正しさを証明する必要がある。この意味でアーヴィング裁判はツンデル裁判と異なり、歴史家に疑いがかけられたのである。

 リップシュタット陣営は各分野の錚々たる実証史家を証人として迎え、2,000ページにも及ぶ報告書を作成し、ホロコースト否定論の「否定」を試みた。アーヴィングが作品を執筆する上で用いたとされる史料を、史料群にまで遡って記述の妥当性を再精査し、「公知の事実」であるホロコーストの存在を再度証明してみせた。もちろんこれには途方もない労力、費用、時間を要したであろう。ランケの実証史学の伝統に則って、可能な限り正確な過去の再現を見事やってのけたのである。結果的に裁判官は全ての論点でリップシュタット陣営の主張を正しいと認め、アーヴィングの著作が虚偽や大げさな脚色を含む修正主義的作品であると認定した。アーヴィングの歴史叙述は歴史学的な検証に耐え得るものではなかったのである。

 アーヴィング裁判は一見、歴史家たちの大勝利に終わったように思われるが、話はそう単純ではない。まず、歴史家たちにとっては、すでに証明されたことを再度証明する「車輪の再発明」を強制されたのであり、新しい知見に乏しい無益な論争に終わった。一方で、「車輪の再発明」を強制された背景には、歴史家にとっての通説と一般人が受け止める歴史は必ずしも一致しないという現実が存在した。歴史家の提唱する通説は、長い年月と膨大な実証研究を積み重ねて構築された実証史学による通説であるが、そうした先人たちの実績の信頼性が歴史修正主義者による根拠なき妄言によって揺るがされるという事態が起こっていた。ホロコースト否定論は戯言に過ぎないと切り捨ててきた歴史家たちの怠慢が、歴史修正主義を知らず知らずのうちに育ててしまっていたわけである。

 さて、ここまでは欧州における「歴史の否定」について説明してきた。一方、「歴史修正主義」とは欧州では概して学術的な文脈で語られることが多い。1980年代後半になると、ドイツではナチズムの過去を再評価する議論が活発になる。終戦直後の解釈と変わらず、ナチの犯した戦争犯罪について「反省し続けるべき」とする主張と、ナチズムの過去と向き合うことが国民の愛国心の育成を疎外しているとして、ドイツの過ちを「そっとしておくべき」とする主張が対立し、歴史観をめぐって論争となった。いわゆる歴史家論争と呼ばれるこの議論は、「そっとしておくべき派」に修正主義的動機があるのは確かだが、ナチズムを矮小化しているわけではないという意味でホロコースト否定論ほど有害ではない。現に歴史家論争はドイツ国民を巻き込んで学術的な土俵で議論されたことから、歴史修正主義ホロコースト否定論は明確に異なる論点であることが決定づけられた。この議論によりドイツ国民の歴史認識への意識は高まり、後述するようにホロコースト否定論の法規制につながったという。

 しかしながら、学術的手続きを踏んでいたとはいえ、歴史家論争が万事健全な議論だったかと言われるとそうでもない。論争では少なくとも双方から修正主義的で極端な主張が発せられ、政治的イデオロギーに基づく対立の様相を呈した。例えば、「そっとしておくべき派」はナショナルヒストリー(一国史観)に立脚した歴史観を提示することで国民の帰属意識や紐帯を高めようと試みた。これは裏を返せば他者(他国民)を他者として固定し、対外的には対立を助長する恐れがある。一方で、「反省し続けるべき派」はナチズムの思想がドイツ人に遺伝子レベルで刻み込まれていると主張するなどして、ドイツの責任をより重く捉えようとした。こうした行きすぎた自虐史観反ユダヤ主義のロジックとさして変わらないにもかかわらず、歴史修正主義とはみなされてこなかった。「歴史の修正」は学術的な文脈であっても政治性を帯びることを免れず、右派であれ左派であれ試みてきたのであった。すなわち、歴史は常に政治に利用される危険にさらされているのである。

 

4.歴史の法規制——歴史の政治的利用は「歴史修正主義」に限らない!

 先に述べたように、欧州ではホロコースト否定論はその有害性ゆえに法律で規制されている。「ホロコーストはなかった」と主張すると法によって裁かれるのである。ナチズムの戦争犯罪を矮小化して歴史を語ることも同罪である。これらは前述の通り「起こったことをなかったことにする」という意味で有害であるが、歴史の当事者、すなわち犠牲となったユダヤ人やその遺族の尊厳を傷つけるという意味でヘイトスピーチと同義として解釈される。したがって、ホロコースト否定論の法規制は言論の自由よりも優先される。加えて、より未来志向で考えると、人種偏見を助長し、憎悪を煽る言説を処罰することは社会の平穏につながるし、悲惨な過去を受け入れ、教訓として語り継ぐことは再発を防ぐ目的もある。ドイツやフランスはこうした観点から自国の負の歴史と向き合い、様々な法律を制定することで有害な歴史修正主義と対峙してきた。

 しかしながら、特定の歴史の否定を法律で禁止することは、裏を返せば国家が「公的な歴史」を定めることに等しい。仮に「カティンの森事件ソ連によって引き起こされた」という言説を法律で禁止するとしよう。すると、「カティンの森事件ソ連によって引き起こされた」ことが否定されるわけだから、「カティンの森事件ソ連の仕業ではない」という解釈が国家の認める歴史像になってしまう。先に述べたように、カティンの森事件ソ連による虐殺行為であることが近年分かっていることから、これはれっきとした歴史修正主義である。すなわち、歴史を法で規制することは、国家による歴史観の押し付けや言論統制、国家ぐるみの歴史修正主義などの危険と隣り合わせなのである。

 歴史の法規制が国家の政治的利益のために利用されるというのは決して作り話ではない。もともと、歴史の法規制はホロコーストおよびホロコースト否定論の経験を糧として、1990年代に欧州の統合を図る目的もあって始まった。しかし、昨今の東欧諸国はその狙いとは真逆の潮流を辿っている。これには、ソ連スターリニズムによる独裁が東欧諸国ではホロコーストと同等にセンシティブな過去として考えられているという背景がある。すなわち、ホロコーストの否定を禁止するのであれば、スターリニズムの否定も禁止せよ、というのが東欧諸国の言い分である。戦後、EUの勢力圏が東方へと拡大するにつれて、EUは上記のような東欧諸国の声を受け入れざるを得なかったが、対するロシアはスターリニズムファシズムを同一視することを歴史修正主義として非難している。こと東欧においては、歴史の法規制によって他国(ロシア)との対立が激化する状況が生じているわけである。負の歴史を国際的レベルで共有し、再発を防ぐことを狙いとして導入された歴史の法規制が、かえって他者(他国)を他者として固定し、対立を煽る道具に成り下がってしまったことはこれ以上ない皮肉であり、不幸でもある。

 こうした問題を孕むこともあり、多くの歴史家は歴史の法規制に対して懐疑的かつ批判的である。アーヴィング裁判で勝訴したリップシュタットらさえも反対の立場を表明している。その理由の一つは、歴史が歴史を専門としない司法の場で裁かれることによって、人文科学が対象とする人間の多層的なアイデンティティや複雑な関係性が捨象されることにある。加えて、司法は政治から独立した中立性を持つため、裁判で勝利を収めた歴史解釈こそが公的なものという印象を与えかねない。歴史と政治のみならず、歴史と司法の関係も非常にセンシティブなのである。重要なのは、歴史・政治・司法の間の均衡を保つことであろう。

 

5.歴史学は常に危機にさらされている——「物語」としての歴史と歴史学

 ここまでの議論を簡潔にまとめよう。「歴史の修正」はもともと学術的な営みであったが、それが「主義」(イズム)と化してしまうと、歴史の修正そのものが目的化してしまい、陰謀論や人種主義と結びついて有害な言説となり得る。その結果台頭したのがホロコースト否定論という過去の犠牲者の尊厳を踏みにじる言説であった。歴史修正主義やその発展型のホロコースト否定論は、歴史が政治的イデオロギーに利用されるという点で有害であることから、欧州では法律で規制されるべき言説となった。しかし、「歴史の法規制」は国家が公的な歴史を定めることにつながりかねない。また、司法の場で勝利を収めた歴史観こそが正しい歴史解釈であるとして誤解される危険性もある。いずれにしても歴史は政治的に利用され得るという危険にさらされている。したがって、歴史修正主義の台頭を防ぐために重要なのは、歴史・政治・司法のパワーバランスを保ち続けることであった。

 「歴史の政治的利用」は本書を貫く大きなテーマの1つである。歴史修正主義にしろ、それを法的に規制するにしろ、歴史は常に政治的イデオロギーの影響を受ける。両者に共通しているのは、歴史を「物語」として捉える傾向である。修正主義者であれ、公権力であれ、歴史の解釈を修正する動機は、負の歴史を「国民に共通の物語」としないためである。冒頭でも愚痴をこぼすかのようにやや触れたが、最後に歴史と「物語」の関係性について考えてみたい。

 アーヴィング裁判にみるように、歴史修正主義は「物語としての歴史」に擬態して現れることもある。歴史を「物語」や「小説」の形に落とし込むことで、脚色という名の皮をかぶせて事実を捻じ曲げることがより容易になるからである。その結果、アーヴィング裁判において歴史学は被告席に立たされるという危機を経験した。実は、「物語」という観点を巡って歴史学が危機を迎えた事例は、はるか昔の18世紀にも見られた。

 18世紀の西洋の歴史学は在野の手によるものと研究機関によるものの2つの潮流が存在した。在野による歴史学は物語的叙述を中心とした活動で、「哲学者」を自称する政治家や文筆家によって担われていた。一方、研究機関による歴史学はベネディクト修道院などを中心に営まれており、文献学的な伝統に基づく史料批判的研究を掲げていたが、実質的には史料を整備し、刊行することが主な活動であった。前者は史料批判の方法が欠如していたため、実証的「科学」とは程遠いのが実態であったが、かといって後者には叙述のためのノウハウが存在せず、ただ史料を集めることに終始していた感があった。

 やがてこれら2つの潮流を統合し、「科学」としての歴史学を確立しようとする試みがドイツのゲッティンゲン大学を中心に始まる。ゲッティンゲン学派は物語的叙述と史料批判統計学的方法を導入することで、歴史を「科学」に昇華しようとした。人口、政治組織、行政機構、商工業活動など、人間にかかわるデータを確固たる史実の裏付けとして活用することが試みられたが、結果的にこれは当時の啓蒙的君主制の賛美に行きついてしまい、政治的イデオロギー歴史学に介入することを避けられなかった。これに「歴史の解釈」という方法論を導入し、「科学」としての歴史学、すなわち実証史学の方法を確立したのは、何度も言及してきたように19世紀のベルリン大学に代表されるランケらであった。厳密にはランケらの方法をもってしても歴史への政治介入は避けられなかったわけであるが、ここで間違いなく言えることは、在野による「物語」としての歴史から脱却し、「科学」としての歴史学を模索する試みは18~19世紀にすでに歴史学が通った道だということである。

 この事実は私自身、在野で歴史学を学んでいる身としては決して他人事とは思えない。十分な史料批判を経ずに叙述された「物語」としての歴史は、3世紀ほど前にすでに否定されている。著述家デイヴィッド・アーヴィングの歴史叙述を巡って争われたアーヴィング裁判は、悲しくも18世紀の歴史学の論争を繰り返してしまったわけである。私自身、こうやって論考を書く上で常に史料入手の制約に悩まされている。「可能な限り史料を集める」ことははっきり言うと不可能で、したがってよりニッチなトピックに着目し、手に入る史料から確実に言えることを叙述するように心がけている。このような立場からすると、アーヴィングの失敗は極めて示唆的である。アーヴィング裁判を教訓として、自らの採る歴史学の方法は常に見つめなおし続けるべきなのかもしれない。

 自省も重要だが、冒頭で「歴史好きの歴史」と「歴史学」の違いをぐちぐちと述べたのは、「物語」としての歴史の問題点を強調したいがためである。民衆にとって歴史がドラマや物語として楽しむものという認識のままでは、悪意ある歴史修正主義の台頭は妨げられない可能性がある。ドイツでは国民を巻き込んでホロコースト否定論の有害性が議論されたことで、「歴史の修正」と「歴史修正主義」、および「歴史の否定」の違いが明確に区別されている。一方、日本では前述のようにこれらが一括りに議論される傾向にある。悪意ある歴史修正主義の台頭を未然に防ぐという点では、日本は欧州に比べて遅れていると言えよう。したがって、「歴史」と「歴史学」の違いを一般大衆に啓蒙していくことが求められる。

 最近の我が国でもベテランの放送作家が日本の歴史に関する総論を出版したが、多分に誤りを含むことやフリー百科事典からの転載が散見されるとして話題となった。また、Twitterで十数万人のフォロワーを擁する極右の匿名インフルエンサーが、名誉棄損で提訴されたこともメディアで広く取り上げられた。日本の某有名大学の教員がいわゆるラムザイヤー論文を肯定的に評価する発言を繰り返していることも問題となった。これらに対して数多くの賛否が寄せられている様を見かけたが、彼らに擁護的な意見は概して情報の断片をエビデンスとして提示するのみで、なにも証明することなく鬼の首を取ったかのように他者を攻撃する悪質なものが多い印象であった。歴史修正主義が身近なところにあふれていることを実感した1年間であったように思う。

 ドイツの社会学マックス・ヴェーバーは「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」という論文で、自分の主張が立脚する「観点」を自覚することの重要性を訴えた。ヴェーバーの言う「客観性」とは、個人の主観的な価値判断をすべて排除することではない。誰しも何かしらの「観点」に立脚して主張を展開するのであって、主観的な観点なしにはそもそも社会を語ることはできない。発言や主張は偏っていてもいい。「政治的中立」を確保して主張を展開することなど不可能に近い。自身の党派性や政治的偏りを自覚することが重要なのである。民主主義国家では誰もが党派性を有する。したがって、歴史を議論する際に政治的イデオロギーの介入は避けられない。なればこそ、ヴェーバーの言うように、自身の政治的イデオロギーの偏りを自覚した上で歴史的議論を行うことが重要ではないか。

 

参考文献

・G.G.イッガース(中村幹雄、末川清、鈴木利章、谷口健治訳)『ヨーロッパ歴史学の新潮流』晃洋書房、1986年。

・E.H.カー(清水幾太郎訳)『歴史とは何か』岩波書店、1962年。

・芝健介『ヒトラー——虚像の独裁者』岩波書店、2021年。

・武井彩佳『歴史修正主義──ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで』中央公論新社、2021年。

本書。

・野口雅弘『マックス・ウェーバー——近代と格闘した思想家』中央公論新社、2020年。