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【本の感想】推理小説×グローバル・ヒストリー?——クリスティーナ・トンプソン(小川敏子訳)『海を生きる民—ポリネシアの謎—』A&F BOOKS(エイアンドエフ)、2022年

【本の感想】推理小説×グローバル・ヒストリー?——クリスティーナ・トンプソン(小川敏子訳)『海を生きる民—ポリネシアの謎—』A&F BOOKS(エイアンドエフ)、2022年、348頁

 ポリネシアという言葉をご存じだろうか? 多少地理に詳しい人であれば、タヒチ島などからなるフランス領ポリネシアを思い浮かべるかもしれない。しかし、本書が定義するポリネシアとは単なるフランス領土のことではない。太平洋に浮かぶ数々の島国からなる地域。ハワイ、ニュージーランドイースター島3点を頂点とするトライアングルで結ばれる地域(ポリネシアン・トライアングル:図1)。互いに何千キロも離れていながら、共通する均質な文化を有する地域。それが本書で扱う広義のポリネシアである。もちろん、フランス領ポリネシアの島々も、この広義のポリネシアに含まれる。

 著者のクリスティーナ・トンプソンはマオリ族の夫を持つ。ニュージーランドの先住民であるマオリ族も、もちろんポリネシア人と定義される。彼女の夫によると、マオリ族はハワイキという幻の故郷からニュージーランドまで8隻のカヌー船団でやってきて、そこから西洋人が到来するまでの1000年余りの間、ニュージーランドに定住し続けてきたという。著者は本書の執筆にあたってポリネシアの島々を家族連れで旅してきた。どの島でも感じられたのは、島民から向けられるポリネシア人の夫への「同胞としての好意」だったという。何千キロと離れた島々の間にも、「ポリネシア人」というアイデンティティに基づく感情的紐帯が確かに見られた。

図1 ポリネシアン・トライアングル

 ポリネシア、およびそこに住むポリネシア人の起源をめぐっては、西洋人による大航海が始まった15世紀末以降、実に様々な謎解きが試みられてきた。しかし、本書で描かれる謎解きの試みはなにも西洋人に限った話ではない。ときにポリネシア人も異邦の文化と自らの文化の差異に関心を持ち、西洋人と力を合わせて自身の起源に迫ろうとした。しかも、ポリネシアの歴史を紐解く過程は西洋とポリネシアの二項対立では完結せず、アジア、オセアニア南北アメリカといった地域をも巻き込んでいく。それはまさに、ポリネシアという地域(region)の歴史をめぐってヒト、モノが世界中を駆け巡るグローバル・ヒストリーだ。本書はそうしたポリネシアの起源をめぐるダイナミックな旅へと読者をいざなう。歴史上の人物の旅を追体験しながらも、ポリネシアの謎が提起され、その謎を解き明かすためのツールが続々と登場する。そうした意味で、本書はさながら推理小説のような特徴も持ち合わせる。古来より歴史小説というジャンルはあふれているものの、大きな歴史×推理物という組み合わせは斬新だ。それではまず、そうした斬新な組み合わせを実現した本書の魅力を、あらすじとともに紹介しよう。

 ああ、その前に。推理物のあらすじ紹介と聞いていわゆる「ネタバレ」を危惧する諸君は安心してほしい。人文学的事象に「解決」という営みはあっても、一意に定まる「正解」というものは極めて少ないからである。したがって、先に本書の「ネタバレ」をするのならば、はっきり言って現代でもポリネシアについてはよくわかっていない。

 

 本書の構成は以下の通り。

プロローグ ケアラケクア湾

第一部 目撃者(1521年~1722)

大いなる海 オセアニアの発見/ファーストコンタクト マルケサスのメンダーニャ/絶海へ トゥアモトゥ諸島/最果ての地へ ニュージーランドイースター島

第二部 点と点をつなげる(1764年~1778)

タヒチ ポリネシアの中央部/博識家 クック、トゥパイアと出会う/トゥパイアの海図 もうひとつの見方/決定的な瞬間 ニュージーランドタヒチ

第三部 彼らは何を語るのか(1778年~1920)

諸説が登場 沈没した大陸の謎 19世紀の太平洋/文書が存在しない世界 ポリネシアの口頭伝承/アーリア系マオリ族 意表を突いた発想/ハワイのヴァイキング アブラハム・フォーナンダー/航海の物語 歴史と神話

第四部 科学の力(1920年~1959)

生体学 人間の計測/マオリの人類学者 テ・ランギ・ヒロア/モア・ハンター 石と骨/放射性炭素年代測定 「いつ」を調べる/ラピタ人 パズルの重要なピース

第五部 出帆(1947年~1980)

コンティキ号 トール・ヘイエルダールの筏/航海か、漂流か アンドリュー・シャープ/探偵は安楽椅子から立ち上がる デイヴィッド・ルイスの実験/ホクレア号 タヒチへの航海/航海を再開発する ナイノア・トンプソン

第六部 日々の進歩とともに(1990年~2018)

最新の科学 DNAと年代測定/終わりに 探求の道はひとつではない

 

1ポリネシアという謎

 西洋人とポリネシアが「邂逅」*1するまでは、大航海時代が幕を開けて1世紀ほどの時間を要した。初めて太平洋上のポリネシア域内に足を踏み入れたのは、世界一周を達成したことでその名を轟かせているフェルディナンド・マゼランだ。しかし、彼がポリネシアで目撃したのはたった2つの無人環礁のみであった。ポリネシア域内の島に初めて到達した西洋人はスペイン人の探検家、アルバロ・デ・メンダーニャである。彼は1595年、ソロモン諸島に入植者を運ぶ過程でポリネシアン・トライアングル東端に位置するマルケサス諸島に偶然たどり着く。これが西洋人とポリネシア人の初めての「邂逅」であるとされている。当然、最初の出会いは最悪な結末に終わった。西洋人と現地民は当初こそ友好的な態度を示しあったが、言語の壁や互いに理解不能な行動から混乱が生じ、乱戦に発展。死者も出た。「苦い思い出」では済まされない、凄惨な歴史の記憶である。

 そもそもなぜ西洋人は太平洋に足を踏み入れたのか。今ではすっかり奴隷商人としての顔が有名になってしまったコロンブスが到達したのが、インドではなくアメリカ大陸と分かってから、西洋人は「その先」を求めた。アメリカ大陸の「その先」には何があったのか。15世紀に描かれた世界地図、通称「プトレマイオス図」(2)によると、イベリア半島の南方から太平洋にかけて、巨大な未知の大陸「テラ・アウストラリス・インコグニタ」が存在すると考えられていた。この地図は「メルカトル図法」でおなじみの16世紀の地理学者ゲラルドゥス・メルカトルに言わせれば、「木っ端みじんになって星屑と化す」べきヨーロッパ地理学上の汚点であったが、当時の西洋人はこの未知の大陸を豊かな自然と黄金のあふれる理想郷と信じて止まなかった。そして、コロンブスアメリカ大陸到達によってプトレマイオス図が誤っていたことが分かっても、彼らはこの理想郷への憧憬を捨てきれずにいた。アメリカ大陸のその先、広大な太平洋にこそ、「テラ・アウストラリス・インコグニタ」があると信じ、その理想郷を求めて多くの西洋人が太平洋の荒波へと挑んでいったのである。

図2 プトレマイオス
赤枠で囲ったところがテラ・(アウストラリス・)インコグニタ(Terra Incognita)、すなわち未知の大陸である。出典:Wikimedia Commons

 太平洋の気象は、さながら暴れ馬の気性のように荒い。北半球では時計回りに、南半球では反時計回りに風が舞う。つまり、北緯・南緯ともに3060度では偏西風が吹くが、赤道付近では東から西へ貿易風が吹くため、マゼラン海峡から北上し、この風に乗っていけば、理論上は広大な太平洋を悠々自適に周航できるはずである。しかし、南半球では緯度ごとに「吠える40度」、「狂う50度」、「絶叫する60度」と言われる暴風が吹きすさび、数々の侵入者を拒む(3)。マゼランやメンダーニャはこれらの暴風を無事切り抜けたうえで太平洋を航行したことから、相当運がよかったことになる。しかし、17世紀に入ると西洋人は太平洋への新たな侵入経路を獲得した。これまでの東側とは真逆の西側、つまりアジアからの経路である。当然、従来の航路と比べると長距離航行とならざるを得ないが、南半球に吹く反時計回りの風が利用できるという点でこのルートは安全であった。実際、オランダ東インド会社アベル・ヤンスゾーン・タスマン船長は、このルートからポリネシアン・トライアングルの最南端に位置するニュージーランドに到達している。

図3 太平洋のウィンド・マップ

黒矢印:偏西風。北半球では時計回りに、南半球では反時計回りに吹く。

青矢印:貿易風。赤道~北緯・南緯ともに30度付近を東から西へ吹く。

本書47頁を参考に作成。

 一方で、ポリネシアン・トライアングルの南東部の一角をなすイースター島は、従来の大西洋を経由するルートから到達されている。オランダの航海者ヤーコブ・ロッヘフェーンは太平洋の南東部に幻の陸地があるという噂を確かめるべく、南米最南端のホーン岬から太平洋へ挑んだ。1722年のイースターの日曜日、ロッヘフェーンはついにその島にたどり着く。世界で最も孤立した島。陸地に広がる金色の砂丘。多色使いの見事な布に身を包んだ現地民。彼らの耳には光る銀のプレート。間違いない。この島こそ理想郷とされた未知の大陸だ。ロッヘフェーンがそう確信して上陸したのも束の間、彼の期待は簡単に打ち破られることとなる。遠くから見えた金色の砂丘は枯れ草と焦げた植物、島民のカラフルな布は土を染料とした樹皮、銀の耳飾りはシロニンジン。間近で見るとそこは、「壮絶な貧しさと不毛な土地」に違いなかった。極めつけは島中に放置されている意味不明な石像——モアイ像だ。

 しかし、このモアイ像という奇妙な存在がロッヘフェーンの関心を惹きつけた。なぜ、そして、どうやって作られたのか、どうやって運ばれたのか。ロッヘフェーンの鋭敏な観察眼はイースター島に森林がないことに着目していた。後の科学の進歩でわかることだが、イースター島にはもともと様々な木々が生長していたことが考古学的に証明されている。そして、それらが入植してきたポリネシア人やともに連れてこられたネズミによって破壊されてきたと考えられている。なにはともあれ、イースター島に森林がなかったことは、ロッヘフェーンにとってポリネシアの存在を謎たらしめるに十分な事象であった。

 その後の旅の続きで、さらにロッヘフェーンの頭を悩ませる光景が現れる。イースター島を出た後、彼はマカテア島、サモア諸島への上陸にも成功するが、そこにいた人々は屈強な体格、体に描かれた文様等、イースター島の住民となにからなにまで似ていた。彼はポリネシア人の有する均質性に気づいたのである。自分たち西洋人が科学的努力の限りを尽くして、荒れ狂う太平洋を乗り越え、苦労してようやくたどり着いた太平洋上の数々の島々。互いに数千キロも離れ、孤立していながらも、その島々には我々とは異なる人種がすでに到達していた。航海術の発展史から考えれば、西洋人より先にそれだけの距離を船で渡るなどあり得ない。「荒唐無稽」だとロッヘフェーンは断言している。ロッヘフェーン自身は結局この問題に対して匙を投げたが、彼の冒険と観察により、ここに1つのミステリーが幕を開けた。「ポリネシア人はどこから来たのか」という謎が完成したのである。

 

2ポリネシアの謎に挑む

 「ポリネシア人はどこから来たのか」。ロッヘフェーンが匙を投げたこの謎に対して、西洋人が徐々に解明に迫り始めるまで、さほど長い時間は要さなかった。いや、謎が謎のままで放置されていたのは確かだが、その間にも多くの西洋人が太平洋を探検し続けており、新たな島々やポリネシア人との邂逅は引き続き生じていた。なかでも1768年のタヒチ島への到達は、金星の太陽面通過を観測するための下準備中に起こった偶然の産物である。西洋人として最初にタヒチ島へ上陸したサミュエル・ウォリスは、戦闘に発展する場面も一部あったものの、タヒチ人とは概ね良好な関係を築いてイギリスに帰還した。ウォリスによる遠征は後にポリネシアの起源を探求する上で重要な功績となった。なぜならば、この出来事が西洋人にとってポリネシア人を味方につける礎となったからである。

 1769年、いよいよ金星の太陽面通過が観測される年である。そのための遠征隊のリーダーに抜擢されたのは——名前くらいは聞いたことがあるだろう——ジェームズ・クック船長その人である。タヒチ島付近が金星の太陽面通過を観測するために好都合な場所であったこともあり、クックらはまずタヒチ島を訪れることとなる。そこで出会ったのが、現地で「並外れた天才」と称されたポリネシア人、トゥパイアだ。トゥパイアは知的好奇心にあふれた人物で、神話、宇宙、医術、航海術、天文学など多くの知識に精通しており、深い洞察力を併せ持っていた。トゥパイアとの出会いをきっかけに、ポリネシアの起源に関する謎解きは大きく動き出す。

 ここから先は西洋人とポリネシア人の共同作業だ。西洋人との邂逅を経て異邦に強い関心を持ったトゥパイアを筆頭に、ポリネシア人側も世界を知るための旅に西洋人とともに参戦することとなった。読み進めるたびに、読者はポリネシア人の起源を解き明かすためのツールを少しずつ手に入れていく。それは地図(海図)や汽船、民族学言語学、遺伝子学、考古学といった西洋由来の科学的方法に限らない。ポリネシア人が自分たちのことをより深く理解するために開発した知識体系も授けられる。風、海流、雲、水平線、海鳥、星と島の位置関係などを考慮して船の現在地を予測する「スター・コンパス」はその代表例だ。

 トゥパイアは地元のタヒチ島以外にも12の島を訪れたと自称している。しかし驚くべきは、それ以外にもポリネシアの東西3,200キロにわたって、少なくとも50の島が存在することを彼は知っていたという。トゥパイアのこの並外れた地理感覚は、上記のスター・コンパスという熟練した知識体系に裏付けられていた。スター・コンパスの仕組みはこうである(4)。自身を中心として、空と海の接する水平線を360度見渡して、その俯瞰図を描く。すると図4のように円が描かれるはずだ。円の中心に立つ自身はあくまでも不動のままで、船を進めると空には特定の星が出現する。この特定の星の出入りする位置を注視することで、目指す島の方角が分かるというのだ。まさに星によって導かれる航路、「星の道」(スター・パス)である。これに風向きや雲の形、近くに生息する水鳥の種類などを考慮すると、さらに目的地への針路の正確性が増す。ポリネシアの熟練の航海士は、このスター・コンパスという海図を常に頭の中に思い描きながら目的地を目指したというのだから驚きである。

図4 スター・コンパスのイメージ図

 また、神話や宗教、何千までもたどれる先祖の系譜、口頭伝承なども、ポリネシア人アイデンティティであると同時に、彼ら自身の謎を解き明かす動機とヒントになり得た。そうしたポリネシアの口承に基づいた非常に長い歴史に惹きつけられ、現地の慣習を実践することでその謎を解き明かそうとした西洋人もいる。ベルギーの商人、ジャック=アントワーヌ・モーレンハウトがその一人である。彼はポリネシア人の起源を「沈んだ大陸」説に求めた。太平洋のど真ん中には大昔に巨大な大陸が存在していたが、あるときそれが沈んでしまったのだという、ロマンあふれるが根拠不明のトンデモ学説である。モーレンハウトは「沈んだ大陸説」を実証するために、実際にタヒチ島での生活を実践し、タヒチ人と懇意になることを試みた。彼の居住したコミュニティには、古くからの伝統を全て知っているという老神官がいたという。その老神官から聞かされた創造神話を、モーレンハウトは古代文明の名残と解釈し、「失われた文明説=沈んだ大陸説」を結論付けた。むろん、彼の主張は不備だらけであり、ポリネシア人は沈んだ大陸に存在した古代文明の末裔でもなかったわけだが…。

 モーレンハウトがタヒチ島での生活を実践し始めた1830年頃は、西洋人とポリネシア人の交流がますます活発になり、互いに言語を習得して様々な意見交換ができるようになりつつある時代でもあった。したがって、西洋人はポリネシア人の口頭伝承・思想を収集することが可能となったのである。しかし、スター・コンパスをはじめとしたポリネシア人の伝統的な思想は、残念ながら当時の西洋人の価値観では決して理解できる代物ではなかった。事実、前述のトゥパイアのスター・コンパスをもとにクック船長が作製した海図は、一部正しい部分は存在するものの、実際の島々の配置と比較すると全くあべこべのものとなっていた。これはおそらく、トゥパイアが海図を描いている傍ら、クックが余計な口出しをした結果であろうと考えられている。クックが知っている島については正確に配置されていたからだ。それでも、方角や距離に細心の注意を払って描かれた痕跡も伺えるという。西洋人とポリネシア人の共同作業による海図は、結果として「異文化の融合による混乱に満ちた」ものとなってしまったが、西洋人とポリネシア人の思想の違いを示唆する意義深い産物となった。

 そもそも、ポリネシア人には文字を書く、そしてそれによって記録を残すという文化がなかった。文字がなければ、抽象的な分類や包括的な記述も成り立たない。幾何学、修辞学、代数学記号論理学といった高等数学の思考も誕生し得ないだろう。これはポリネシアの思想に専門的知識がないとか、抽象的な思考がないという意味ではない。あえて「文字を書く」という西洋的な行為の利点を挙げるならば、それは「知識を持つ人物から知識そのものを切り離せる」ことだ。知識人の知識を文字として記録し、後世に残すことで、西洋的な学問は発展してきた。そして著者は、そうした「文脈から情報を抽象化する行為」こそが、西洋に特有の「客観性を重視する世界観」につながったのではないかと考察している。

 ポリネシアの思想は膨大な知識を持つ人物から若い世代へと語り継がれてきた。西洋人にしてみれば、自身の部族の系譜を30世代以上遡ってそらんじてみせるポリネシア人の記憶力は、舌を巻くほどのものである。一方で、口伝の過程で失われていく知識もある。それは現在の暮らしに必要がなくなってしまったために伝えられなくなった場合もあれば、人々が経験を積み重ねる過程で解釈が変わってしまったものもある。ポリネシア人の思想は石を祖先としたり、島を魚と考えたりするなど、極めて寓話的で抽象的なものも存在したが、西洋思想と比べるとその最大の特徴は主観的であることだった。西洋的な地図とスター・コンパスの比較が分かりやすい。西洋人は地図を鳥観図のように考え、緯度・経度など数学によって導き出される客観的な指標で表現した。一方のポリネシア人は、あくまで個人の経験に基づいた数値を用いた。例えば、タヒチ島から一番近い西方の島に行くには追い風で10日、帰りは逆風となり30日かかる距離である、というように。つまり、ポリネシア人の海図は、「特定の島がどこにあるのか」ではなく、「どうしたらそこにたどり着けるのか」を基本理念とした、総合的な航海術の産物であったと言える。

 お互いの言語理解が進み、交流が活発に行われるようになったからといって、文化や思想の理解が急速に進展したわけではなかった。西洋人が収集し得たポリネシアの歴史や神話、思想は、西洋人が生み出した数学以外の科学的方法——例えば比較言語学や神学など——でも理解し難いものであった。それはポリネシア人の思想が、西洋人の客観的指標こそを是とする価値観とは真逆の、主観的価値観から成り立つ壮大な知識体系であったためであろう。言葉が分かるからといってその真意が分かるとは限らない。自己とは異なる思考様式を持つ他者を理解すること、すなわち異文化理解の難しいところはそこにある。19世紀の時点では、西洋人もポリネシア人も異文化理解のノウハウを持ち合わせていなかった。したがって、ポリネシアの起源を解き明かす旅は、新しい科学的方法が開発される20世紀に至るまで、しばらく混迷を極めることとなったのである。

 

3.科学的アプローチと一つの可能性

 19世紀までにポリネシアの謎を解き明かそうとしてきたのは、宣教師や商人、植民地官僚といった好奇心旺盛な人々がほとんどで、研究者は蚊帳の外にいた。つまり、ポリネシアの起源に関する研究は、当世風にいうと「在野」による営みであったと言えよう。余談だが、西洋の歴史学も、「歴史の物語を描く」という点において、18世紀までは研究機関ではなく政治家や文筆家によって担われていたと言われている*2。いつの時代も歴史の探求というのは研究者の占有物というわけではなく、好奇心旺盛な人間によって始まるのである。さて、20世紀に入ると、西洋では人類学の研究が盛んとなり、多くの人類学研究者がポリネシアの起源を解き明かそうと大挙することとなる。

 問いは相変わらず「ポリネシア人とは何者か?」、「どこから来たのか?」、「どのようにして太平洋に入植したのか?」といったものだったが、注目すべきはそれを調査する方法にあった。言うまでもないが、この頃になるとすでに太平洋上に未知の大陸など存在しないことは西洋人の間で共通理解となっていたし、「沈んだ大陸の末裔」説といった荒唐無稽な主張も棄却されていた。そこで、人類学者をはじめとした西洋人研究者らは、より科学的な方法を洗練させて、ポリネシアの起源の謎に再度挑んでいくこととなる。

 彼らが採った代表的な方法が、まず人種的分類からのアプローチであった。肌の色、骨格、髪の毛の質といった身体的特徴を詳細に観察し、分類することで、ポリネシア人アメリカ大陸由来なのか、アジア地方由来なのかを特定しようと試みたのである。むろん、こうした方法は現代の価値観からするとレイシズムの発想に他ならず、決して褒められたアプローチではない*3。しかし、こうした研究のすべてを否定すべきとも限らない。生体学的な研究は、ポリネシア人の起源を科学的に解明する時代に入ったことの証左だったからである。結果的にやり方は間違っていたかもしれないが、ポリネシアの謎を解明しようとする挑戦は、よりよいツールとより膨大なデータセットを用いて、より人道的・客観的な方法に受け継がれていく。

 ポリネシアの起源解明にブレイクスルーを起こしたのは考古学的なアプローチであった。もともとはニュージーランドの絶滅した巨大鳥獣、ジャイアント・モアの存在を確かめるために行われた地層調査で、モアの生きていたと考えられる時代——それこそ1万年以上前の旧石器時代——の地層から石斧などの人工物が出土したのである。旧石器時代ニュージーランドにはすでにモアとともに人類が存在していたとする主張は激しい論争となったが、これをきっかけとして1950年代に画期的な技術が開発される。放射性炭素年代測定法。一定の速度で崩壊する放射性炭素(炭素14)と安定性を有する普通の炭素(炭素12)の比率から時間の経過を測定する方法で、ほんの数十グラムの有機物があればその物質のおおまかな年代を特定できる。ポリネシア人の起源に迫ることのできる、新たな定量的方法であった。

 放射性炭素年代測定法が開発されてからは、ポリネシアの様々な出土品が鑑定に掛けられた。なかでも最古のものはマルケサス諸島の出土品で、紀元前2世紀という値を示した。現地の神話によると、最初の移住者がマルケサス諸島に住み着いたのは紀元約950年と言われていたが、放射性炭素年代測定がはじき出した原初のポリネシア人の可能性は、その1000年以上も前の時代であった。

 問題はどこから来たかであった。ポリネシアの近隣の島々に目を向けてみる。ニューカレドニアやバヌアツ、パプアニューギニアは厳密にはミクロネシアメラネシアという地域に分類される、いわゆる「域外ポリネシア」であるが、これらの島からも同様に紀元前1世紀ごろに存在したとされる遺跡が見つかっていた。ラピタ人と呼ばれる人々の遺跡である。逆に、それより下の地層を掘っても、人工物は見つからなかった。そこで一つの仮説が立てられた。どうやらこれら「お隣さん」たちは、「紀元前1000年頃に“ほぼいっせいに”」ポリネシアへと植民したらしい。

 この仮説は言語学的な観点からも説得力を持って展開された。ラピタ人の用いていた言葉はオセアニア祖語であり、ポリネシアのすべての島で話されている言語がこの派生語だという。おまけにラピタ人は移住民族であった。オセアニアメラネシアミクロネシアの島々に、カヌーで食糧や家畜を持ち込んで入植した。新しい島の環境に適応し、ときにはその島の景観を大きく変え、次から次に新しい島を求めて移住を繰り返した。そうして、太平洋に浮かぶ無数の島々、ポリネシアにたどり着いた。彼らにはカヌーによる驚くべき遠洋航海のノウハウがあった。では、なぜ一つの島に定住せずに、あるかもわからないその先の島を目指して、先の見えない旅路へと繰り出したのだろうか? 推測の域を出ないが、彼らラピタ人には「ある信念」があったのではないかと著者は言う。新しい土地の「始祖になる」という思いである。ポリネシアでは始祖の名前や行いは神話の核となり、口頭伝承として受け継がれていく。ポリネシアの起源は、始祖になることを夢見た移住民族の若人たちによる「野心」だったのかもしれない。

 

4.ポリネシアを再現する

 考古学的・科学的・言語学的な観点から、ポリネシアの起源はアジア由来説が濃厚となったが、それでもまだアメリカ大陸由来説が否定されたわけではなかった。赤道から北緯・南緯ともに30度付近で東から西へ吹き荒ぶ強い貿易風(3)を考慮すると、メラネシアやミクロネシといったアジア側からポリネシアへと侵入するなどあり得ないというのが、アメリカ大陸由来説の根拠であった。逆に言うと、貿易風を利用すればアメリカ大陸側からポリネシアへと侵入できることはこれまでの西洋人の冒険が証明してきたことである。また、アメリカ大陸の基本的な食用作物であるサツマイモが、西洋人の到達した頃にはすでにポリネシアで栽培されていたことも、アメリカ大陸由来説の再燃に拍車をかけた。ポリネシアの起源はアメリカかアジアか。論争は相変わらず紛糾していた。

 放射性炭素年代測定法がポリネシア人の起源を解き明かすうえで考古学的なブレイクスルーを起こした一方で、西洋人の次なる関心は理論上明らかになったことの再現性であった。これから綴ることは、「科学的」であることを是とする人間が取る行動としては笑ってしまうようなことかもしれない。すなわち、当時の条件の下で人間はポリネシアに到達できるのかという実験——そう、20世紀という時代に、彼らは筏で太平洋を渡ろうとしたのである。

 いわゆる「航海の再発明」のトップバッターを務めたのは、ノルウェーの人類学者、トール・ヘイエルダールである。彼はコンティキ号という巨大な筏を建造し、ポリネシアを目指してペルーから太平洋へと繰り出した。この実験は最終的にトゥアモトゥ諸島に到達することができ、限りなく成功に近い結果をもたらしたと言えるが、人類学的には失敗と評価する声が多かった。筏に積み込まれた航海計器や缶詰保存食が現代のものであったこと、言語学的な矛盾など、容赦ない批判が浴びせられた。

 しかも、ヘイエルダールらの実験は航海というより「漂流」に近かった。このことから、それまで高く評価されていたはずのポリネシア人の航海術にも疑問の目が向けられ始める。ポリネシア人の起源とは、実は「漂流」による偶然の産物だったのではないか? この「漂流」にヒントを得て新たに考案されたのが、コンピュータ・シミュレーションによる検証である。風、海流に関する80万種類に及ぶデータを登録し、12万通りを超える航海・漂流の検証がコンピュータ上で計算された。結果は様々であった。例えば、漂流によってアジア側からのトゥアモトゥ諸島到達の可能性はほとんど不可能とされたが、舵を取る能力を考慮した航海では高い到達可能性が示された。ハワイ諸島は漂流によればどこを出発点としても絶対に到達できなかったが、マルケサス諸島から北北西に舵を切れば8.5%というわずかな確率で到達する可能性があった。イースター島もほとんど到達不可能な絶海の孤島と考えられたが、唯一ペルー沿岸からの漂流の可能性がわずかながら示された。ニュージーランドも漂流による到達可能性はゼロに近かったが、クック諸島ラロトンガから南西へ航行すれば十分な到達可能性がはじき出された。

 これらコンピュータ・シミュレーションの結果は、ポリネシア人の航海術に対して掛けられた疑義を払拭する効果もあった。定量的に示された結果に異議を唱えられる科学者はいなかった。したがって、次なる疑問はポリネシア人の航海術が具体的にどういうものだったかである。西洋人は再び「航海の再現」に取り組まざるを得なくなった。とはいえ、それは先駆者であったヘイエルダールの方法とは明らかに異なる。まず、筏ではなくポリネシアの伝統的なカヌーが用いられた。また、航海者には伝統的な航海術の継承者を抜擢した。その他、食糧や家畜も従来からポリネシアに存在したものが積み込まれた。完全な再現を目指したのである。

 1965年に行われた実験はハワイからタヒチを目指した。このルートを往くノウハウはポリネシア人の間でも遥か昔に途絶えたと言われていたが、ミクロネシア出身の航海士マウ(本名ピアス・ピアイルック)とイギリス生まれのニュージーランド人航海士デイヴィッド・ルイスの手によって十分な準備の末に見事復活させられた。しかし、当時の乗組員の不規律な態度がマウの機嫌を損ねたことから、2度目の実験(1978)ではマウ不在で挑まざるを得なくなり、これが多くの人命を失う大失敗に終わってしまう。

 1980年、ナイノア・トンプソンというハワイ人の血を引く20代の若者が3度目の航海実験を試みる。1978年の失敗を無駄にせず、ハワイ人が自らの文化に誇りを取り戻すことを目的として、この若者は立ち上がった。ナイノアの熱意に押され、最初の実験に参加したマウも、ハワイからタヒチへの航海に15年ぶりに加わることとなった。ナイノアは自らのルーツと受け継いできた航海術を最大限発揮して順調に航海を進めたが、経験不足感は否めなかった。事実、航海の終盤、そろそろ目的地にたどり着くであろう夜明けに、目印となる海鳥の姿が見当たらず、彼は知らぬ間に漂流してしまったのではないかとパニックに陥った。熟練者のマウが航海に介入したのは、たった一度この時である。「方向転換して朝方すれ違った鳥を追え。1時間もすれば島が見つかる」。マウはこれ以上多くは語らなかったし、ナイノアもマウの指示の意図は分からなかった。しかし、1時間後、ナイノアらはタヒチにたどり着いた。もちろん、海図も計器も、紙もペンも使わずに。20代の若き船長が成し遂げた大快挙であった。

 マウによるここ一番での会心の指示は、まさにスター・コンパスの賜物だった。朝方すれ違った鳥が小さな魚をくわえていたこと、その魚はヒナに食べさせるために運ばれていたことをマウは見逃していなかった。先述のように、スター・コンパスは星と島の位置関係だけで成り立つものではない。雲の位置、風向き、海流、海鳥の習性、これらすべてを組み合わせることで、目的地へとたどり着く正確性は格段に増す。スター・コンパスという西洋人の科学的価値観では容易に理解できないポリネシア独自の知識体系は、口頭伝承により現代まで受け継がれ、歴史を実証する際に大役を果たした。西洋の科学とポリネシアの知識が交差することによって、ポリネシアン・トライアングルは世界に開かれたのである。

 

5推理小説×グローバル・ヒストリー?—本書の歴史学的意義—

 西洋人とポリネシア人の共同作業によって、先史時代に人類によって太平洋の長距離航海が行われたという事実は、実験的に十分裏付けられたと言えよう。しかし、西洋の科学の進歩とポリネシアの文化理解によってポリネシアの起源に関する解明は進んではいるものの、「いつ」「誰が」(誰の祖先が)ポリネシアに初めて上陸したのかという謎は依然として残されたままである。ここまで様々な学説を紹介してきたが、実のところ近年ではアメリカ大陸由来説はほぼ否定されており、ポリネシア人の祖先はアジア人かメラネシア人のどちらかであろうというところまで絞られてきているらしい。だが、完全な解明はまだなされていない。そもそも科学とはそういうものだ。本稿の冒頭で、「推理小説のような特徴」と形容したが、本書には「解決編」はあっても謎解きの「正解」は存在しない。

 さて、本書の著者クリスティーナ・トンプソンは編集者、ライターであって研究者ではない。そのため——誤解を恐れずに言えば——本書は学術書でもなければ、学術的に新たな発見もないと言えよう。しかし、ポリネシアの歴史を扱った本書は、歴史書として非常に優秀な文献であると言える。したがって、一般書的な性格を強く有しながらも、本書には歴史学的意義を見出すことが十分に可能であると私は考える。それは言うなれば本書が、推理小説のような物語的叙述とグローバル・ヒストリー(あるいはビッグ・ヒストリー)という歴史学的方法を両立し得たという点である。

 歴史を物語(ナラティブ)として叙述する方法は、紀元前から現代まで連綿と続いてきた。「物語」と聞くと、現代では脚色を含む歴史小説大河ドラマのようなものを思い浮かべるかもしれないが、いわゆる実証主義に立った歴史学の叙述方法も一つのナラティブを提示していることは間違いない。もともと、18世紀までの歴史学は研究者ではない「在野」的立場の人々によって物語的に叙述されてきたことは先に述べたとおりである。これに一次史料の活用と史料批判の方法を導入し、実証と物語的叙述を統合させたのがドイツの歴史学者オポルト・フォン・ランケであった*4。したがって、現代歴史学は「実証」を重視しつつも、ナラティブを伴った叙述方法で成り立っていると言えよう。

 本書の歴史叙述は学術書や論文のような「実証的」であることを第一とした叙述の仕方とは異なり、よりナラティブ的であると考えられる。ポリネシアを舞台として、読み進めるたびに様々な登場人物が登場し、ポリネシアの謎が深まるとともに、それを解き明かすヒントも読者の前に少しずつ現れる。私が本書を「推理小説」と形容するのはこうした物語の展開に由来する。ポリネシアの謎に挑む西洋人・ポリネシア人の推理パートは、オーソドックスな歴史小説では得られないエキサイティングな知的興奮が確かにある。

 一方で、本書の扱う対象の範囲の広さにも目を見張るものがある。舞台は太平洋に浮かぶ無数の島々の集まり、すなわちポリネシアだが、その起源に迫るために西洋とポリネシア現地のみならず、アジア、オセアニア南北アメリカといった様々な地域をも巻き込んで、空間的に大きな物語が展開されていく。また、大航海時代の幕開けから現代まで約500年間と、時間的にも広大な射程を有する。これはまさに、歴史をローカル(地方)・ナショナル(国家)・リージョナル(広域の地域)・グローバル(地球世界)4つの層の結びつきから、長期的な視野で捉えようとするグローバル・ヒストリーの手法である*5。グローバル・ヒストリーは近年、ようやく日本でも注目され始めた歴史学の方法であるが、日本と海外ではやや認識が異なるところがある。日本において「グローバル・ヒストリー」というと、グローバリゼーションを前景化させた経済・政治・文化などのグローバル化に関する歴史を指す傾向にあるが、海外ではグローブ(globe)の歴史、すなわち「地球の歴史」といった含意も強く、そこでは地球の気候や生態系、それらとの人類の関わり、果ては宇宙の全体を対象とすることもある。そして、このようなより広義の「地球の歴史」を叙述する方法は、海外では「ビッグ・ヒストリー」とも呼ばれる*6

 ビッグ・ヒストリーは、従来の西洋中心史観や一国史観的な歴史学が取り入れて来なかった方法を用いることに特徴がある。すなわち、考古学にとどまらず、物理学、化学、生物学、天文学、人類学、脳科学、気象学など、これまで歴史学とは切断されていた領域を世界史に接続して、一貫した枠組みに収める方法である。もともとはオーストラリアの歴史家デイヴィッド・クリスチャンによって提唱された、宇宙の誕生(ビッグ・バン)以降すべての時代を歴史学の対象とするプロジェクトであるが、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』やジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』といった、いわゆる文字史料を持たない先史時代以降の人間の歴史を扱った「人類史」というカテゴリもこれに含まれるであろう*7

 さて、話を本書に戻そう。本書『海を生きる民』がグローバル・ヒストリーの特徴を有するとともに、その一ジャンルである「ビッグ・ヒストリー」の方法も用いていることは言うまでもない。ポリネシアの起源をめぐる謎解きには気象学や生体学、放射性炭素年代測定といった西洋由来の様々な自然科学的要素がふんだんに登場した。ポリネシアの文化・知識体系に関しても、スター・コンパスは天文学、気象学、生物学といった学問領域の基礎となる「知識」の総体的産物と考えることができる。なるほど、そう考えるとかつての西洋人が到底理解の及ばなかったポリネシアの文化というものも、我々人類が共通して有する知恵の一形態として理解できないだろうか。ビッグ・ヒストリーによる歴史叙述はなにも自然科学的な方法に限った話ではない。真に巨視的な視点から歴史を眺めることで、西洋中心史観や一国史観から脱却し、自身の出自とは異なる文化の理解を助ける。本書が描くビッグ・ヒストリー(ないしグローバル・ヒストリー)の功績はそこにあるのではないか。

 本書のカバー袖にある内容紹介によると、本書は「ポピュラー・ヒストリー」——すなわち人類史であるという。人類史というと、先に挙げたダイアモンド『銃・病原菌・鉄』を彷彿とさせるが、実はダイアモンドの本にもポリネシアに関する記述がある。ダイアモンドによるポリネシア史観と本書のそれとを比較することで、上記の功績に説得力が増すだろう。本書が広大な太平洋に遍在するポリネシア人の「均質性」(=共通性)に注目してポリネシア人の起源を遡ったのに対し、ダイアモンドは『銃・病原菌・鉄』の第2章「平和の民と戦う民の分かれ道」において、ポリネシア各島における文化や社会構造の「多様性」(=違い)に着目した。例えば、ニュージーランド北島マオリ族は温暖な気候によって農耕社会を発展させることができた一方で、そのすぐ東に位置するチャタム諸島のモリオリ族については、もとはマオリ族と共通の祖先を持ちながらも、チャタム諸島の寒冷な気候故に作物を育てられず、「狩猟採集生活に戻らざるを得なかった」と分析している*8

 この「狩猟採集生活に戻らざるを得なかった」という評価がポイントである。ダイアモンドの言う文化や社会構造は、進歩主義的で西洋中心史観が混入しているように思われる。現に、ポリネシアのその他の島国についても、例えばハワイやトンガは絶対的君主制に類似する政治制度を確立することで、他のポリネシアの島々よりも建設や灌漑などの公共事業を発展させることができた*9と評するなど、ポリネシア間での政治・産業の進歩の差異を強調する傾向にある。そして、ダイアモンドはその差異(多様性)の拠り所を気候、地質、海洋資源、面積、地形、隔絶度などに求めている。すなわち、ダイアモンドのポリネシア史観からは環境要因論者の側面も垣間見えるのである。ダイアモンドがこれらポリネシアにみられた環境要因に基づく社会構造の分岐をモデルとして、より大きな領域(世界レベル)で一般化を図っていったのは『銃・病原菌・鉄』を既読であればご存じの通りであろう。

 本書の著者トンプソンは、ダイアモンドの指摘するようなポリネシアに生じた多様性を考慮してもなお、広大な太平洋にまたがってポリネシアの均質な文化が存在したことを強調している。こうしたポリネシアの「共通性」への着目は、ポリネシア人を最愛の夫に持つトンプソンならではの経験からなる視点であろうか。ポリネシアに対して、「違い」に注目したダイアモンドと「共通性」に注目したトンプソン。両者の主張が両輪のように機能することで、ポリネシアの立体性・解像度をより高めることができると期待される。

 なお、本書は学術書ではないと断ったが、謝辞を参照すると、デイヴィッド・アーミテイジなど第一線で活躍する歴史家も原稿段階で目を通しているようで、歴史書としての誠実さに疑いはない。なおかつ、ハラリ『サピエンス全史』やダイアモンド『銃・病原菌・鉄』といったかつてのビッグ・ヒストリー本と比べると、ナラティブ的叙述で可能な限り抽象性を廃しており、対象となる地域もポリネシアに限定したことで、論旨はより具体的かつ明快であると言える。私は常日頃から、市井の人々に対して歴史学はいかなる貢献ができるかということに想いをめぐらせているが、本書は平易な物語(ナラティブ)的叙述でありながら、グローバル・ヒストリー(ビッグ・ヒストリー)の方法を用いた「大きな歴史」のエキサイティングな見方を提供しているという意味で、専門的な方法論を用いた歴史の見方を一般書の体裁で実現している。300頁を超える分厚さに反して、一般読者向けの歴史書として自信を持って推薦できると考えられた。

 

参考文献

秋田茂、細川道久『駒形丸事件—インド太平洋世界とイギリス帝国—』筑摩書房2021年。

・イッガース、G. G. (中村幹雄、末川清、鈴木利章、谷口健治訳)『ヨーロッパ歴史学の新潮流』晃洋書房1986年。

・小川幸司、成田龍一、長谷川貴彦「鼎談 『世界史』をどう語るか」成田龍一、長谷川貴彦編著『〈世界史〉をいかに語るか―グローバル時代の歴史像―』岩波書店2020年、125頁。

・岡本充弘「グローバル・ヒストリーの可能性と問題点―大きな歴史のあり方」成田龍一、長谷川貴彦編著『〈世界史〉をいかに語るか―グローバル時代の歴史像―』岩波書店2020年、2647頁。

・岸本美緒「グローバル・ヒストリー論と『カリフォルニア学派』」成田龍一、長谷川貴彦編著『〈世界史〉をいかに語るか―グローバル時代の歴史像―』岩波書店2020年、7696頁。

・木畑洋一「グローバル・ヒストリー——可能性と課題」歴史学研究会編『第4次現代歴史学の成果と課題(1)—新自由主義時代の歴史学2001年~2005年—』績文堂出版、2017年、4963頁。

・ダイアモンド、ジャレド(倉骨彰訳)『銃・病原菌・鉄()草思社2012年。

・トンプソン、クリスティー(小川敏子訳)『海を生きる民—ポリネシアの謎—』A&F BOOKS(エイアンドエフ)、2022年。

 本書。

山下範久「近代的歴史記述をいかに開くか」山下範久編著『教養としての世界史の学び方』東洋経済新報社2019年、4888頁。

Webサイト(地図提供)

白地図専門店

https://www.freemap.jp/listAllItems.html (2022年6月18日アクセス)

 

*1:「発見」ではないことは本書も注意を促している。本書、3839頁。歴史学上、新大陸や新島の「発見」という言い方は典型的な西洋中心史観として強く拒まれる。そのため、本書の第一部でも西洋人はあくまでもポリネシアの「目撃者」として表現されている。

*2:G.G.イッガース(中村幹雄、末川清、鈴木利章、谷口健治訳)『ヨーロッパ歴史学の新潮流』晃洋書房1986年、14頁。

*3:事実、著者も「21世紀の人間から見れば、じつにおぞましい内容に満ちた研究」と評し、「人種差別主義の正当化につながる傾向があった」ことを認めている。しかも、西洋の科学者たちがポリネシア人に適用しようとした区分がそもそも客観的な基準によるものではなかったことから、「失敗だったと言うしかない」と断じている。

*4:イッガース『ヨーロッパ歴史学の新潮流』、1321頁。

*5:厳密にいうとグローバル・ヒストリーという概念は未定義であると言われているが、上記の定義を採用するにあたり、以下の文献を参考にした。小川幸司、成田龍一、長谷川貴彦「鼎談 『世界史』をどう語るか」成田龍一、長谷川貴彦編著『〈世界史〉をいかに語るか―グローバル時代の歴史像―』岩波書店2020年、125頁。岡本充弘「グローバル・ヒストリーの可能性と問題点―大きな歴史のあり方」同上、2647頁。岸本美緒「グローバル・ヒストリー論と『カリフォルニア学派』」同上、7696頁。秋田茂、細川道久『駒形丸事件—インド太平洋世界とイギリス帝国—』筑摩書房2021年、1117頁。木畑洋一「グローバル・ヒストリー——可能性と課題」歴史学研究会編『第4次現代歴史学の成果と課題(1)—新自由主義時代の歴史学2001年~2015年—』績文堂出版、2017年、4963頁。

*6:岡本「グローバル・ヒストリーの可能性と問題点」、32頁。

*7:山下範久「近代的歴史記述をいかに開くか」山下範久編著『教養としての世界史の学び方』東洋経済新報社2019年、84頁。小川、成田、長谷川「鼎談「世界史」をどう語るか」、2頁。ただし、長谷川はハラリの『サピエンス全史』を「ディープ・ヒストリー」と定義している。同上、6頁。また、木畑は環境問題がますます顕在化する昨今におけるビッグ・ヒストリーの意義を認めつつも、これをグローバル・ヒストリーの一部としてみなすべきとしている。木畑「グローバル・ヒストリー」、52頁。

*8:ジャレド・ダイアモンド(倉骨彰訳)『銃・病原菌・鉄()草思社2012年、95101頁。

*9:同上、115116頁。