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【書評】「理論」としての歴史学の試み——大塚久雄(小野塚知二編)『共同体の基礎理論 他六篇』岩波書店、2021年

【書評】「理論」としての歴史学の試み——大塚久雄(小野塚知二編)『共同体の基礎理論 他六篇』岩波書店2021年、406

 本書は大塚久雄が1955年に発表した『共同体の基礎理論』に、編者の小野塚が関連論考6編を加えて一冊にまとめ直した復刻本である。表題の論考『共同体の基礎理論』は封建制社会から資本主義社会への移行が共同体の解体によって引き起こされたとする命題を理論的に論証している。続く6編の論考はそれぞれ別の媒体に収録されていたものであるが、難解な『共同体の基礎理論』を補足する性質を持つものが集められている。

 

本書の構成

共同体の基礎理論

生産力における東洋と西洋——西欧封建農民の特質——

いわゆる「封建的」の科学的反省

「共同体」をどう問題とするか

内と外の倫理的構造

マックス・ヴェーバーのアジア社会観——とくに彼の共同体理論について——

アジアから見た文化比較の基準

解説(小野塚知二)

 

1.本書の概要

 表題の論考は「基礎理論」という題名の通り、前近代(封建制)社会における共同体の成り立ちと特徴を、民族学文化人類学の実証的成果、ないしは史実をもとに「理論的に」捉えることを試みている。「実証」を重視する歴史学において「理論的」な方法を取ることの意義については後に議論するとして、まずは本書のあらましを簡潔に紹介しよう。

 大塚は共同体が形成される前提として、カール・マルクス的な観点から土地の重要性を強調する。定住型農耕社会において、土地は食糧である農産物を生み出すだけでなく、農具や武器、住居、衣服のもととなる木や石、鉄といった材料も内包し得る。この意味で人間は土地に縛られるのであり、一方で定住した土地を支配することで生活を発展させてきた。こうした土地の重要性にマックス・ヴェーバーの宗教社会学、経済社会学的な理論を接続することで、原始的な共同体組織が様々な形態に発展してきたことを示している。大塚はマルクスヴェーバーの学説を巧みに組み合わせることで、共同体の形成を捉えようと試みた。

 大塚によると、そのようにして形成・発展してきた共同体は、歴史上「アジア的形態」、「古典古代的形態」、「ゲルマン的形態」の3類型に分けられる。「アジア的形態」は決してアジアだけに見られた共同体ではなく、ケルト地方やインカ地方でも散見されたが、インドの村落を代表的な例として議論されており、血縁に基づく強固なつながりと共同態規制(いわゆる村のルール)によって土着化された集団を示す。一方、「古典古代的形態」は古代地中海世界にしばしば見られた共同体の類型であり、「アジア的形態」と比べると支配領域(土地)を拡張する活動が特徴的であった。土着的な特徴を持つ「アジア的形態」において人間は土地に縛り付けられているが、「古典古代的形態」は戦闘行為によって自集団の領域を拡大し、都市を形成したという点で「アジア的形態」の発展型と目される。そして第3の形態、「ゲルマン的形態」は「古典古代的形態」をさらに発展させた共同体で、そこではすでに血縁関係や共同態規制は希薄となっており、各個人に土地の私有化が認められていた。

 「アジア的形態」と「古典古代的形態」が個々の家族や部族の規模・能力に見合うように土地を配分する「実質的平等」の原理に依拠していたのに対し、「ゲルマン的共同体」は個々人に均等に土地を配分する「形式的平等」の原理に依拠した共同体であり、私有の土地から得られた生産手段や農産物の私的所有・自由な売買が認められていた点で前者2形態と一線を画す。この意味で、「ゲルマン的形態」は個人を包み込む(拘束する)共同体ではなく、分業や商業からなる個人の結合関係として現れる。ここに共同体が解体に向かう要素が含まれていることは言うまでもない。

 すなわち、共同体は「アジア的形態」、「古典古代的形態」、「ゲルマン的形態」と発展を遂げるなかで、血縁や共同態規制、土着性といった特徴が希薄化していき、共同体は解体へと向かうこととなった。その結果、前近代的封建制は崩壊し、人と人との関係が物(商品)で結び付けられる資本主義社会へと移行していくというのが本書の要旨である。しかし、こうした大塚の資本主義社会への移行の理解は通説と比べると斬新であると言える。

 まず、前述の通り大塚は共同体形成の前提として土地の重要性を指摘しており、これは資本主義社会への移行過程における農業の重要性を強調する伏線となっている。資本主義社会発展史の通説としては、大航海時代到来に続く金銀の西洋への流入や囲い込み運動を基盤とした本源的蓄積論や、イギリス市民革命から連なる産業革命論が有名であるが、大塚は資本主義社会の夜明けを商人でも産業資本家でもなく、これらと利害の対立した独立自営農民の活躍に求めている。

 この主張には、当時の日本の国際的位置付けや社会状況といった背景が大きく反映されている。そのことが最もよくわかる論考が、2番目に収録されている「生産力における東洋と西洋」であると言えよう。この論考では、当時の日本が封建的絶対主義の崩壊期にあると規定したうえで、西洋の封建制と比較して日本が近代資本主義の移行に難渋していることを指摘している。西洋と日本の生産力の違いは単純な科学技術のみに依存するものではなく、民衆の勤労に対する態度に大きな要因があることを強調し、そのうえで日本人を近代的・生産的な人間類型へと教育していく必要性を説いている。大塚の現代的関心に基づくイデオロギーが最もよく表れた論考であろう。

 冒頭で述べたように、『共同体の基礎理論』は難解であり、結論らしい結論もなく、道半ばで稿を終えているような印象さえ受ける。そうした難解さ・半端さを後に収録された6編の論考によって補っているのが、復刻版としての本書の特徴であろう。例えば、「いわゆる「封建的」の科学的反省」では、西洋に顕著であった共同体の「古典古代的形態」と「ゲルマン的形態」について、ヴェーバーの研究を参照しながら詳しい掘り下げが行われている。また、「「共同体」をどう問題とするか」と「内と外の倫理的構造」では、血縁や共同態規制が農村共同体においていかに作用し、希薄化していったかを当時の日本の状況を鑑みながら語っている。

 残る2稿、「マックス・ヴェーバーのアジア社会観」、「アジアから見た文化比較の基準」は題名からも分かるように、「生産力における東洋と西洋」と同様、大塚の日本人としての意識がより鮮明に表れており、『共同体の基礎理論』が当時の日本の状況を憂いながら執筆されたことが想像できるであろう。当時の日本をいかにして近代化へと導くべきか、その方法を大塚なりに一般化したものが『共同体の基礎理論』なのである。

 

2.理論としての歴史学—「大きな歴史」との関連で—

 後続の6編を踏まえることで表題論考『共同体の基礎理論』の本質が見えてきたところで、本書のもう一つの特徴を挙げるならば、それは徹底された「理論的」な分析であろう。『共同体の基礎理論』は大塚自ら「史実の森に分け入ろうとするばあいに携行すべき…地図」であり、「本来どちらかといえば経済理論の研究系列に属せしめられるべきもの」と称しており、本文中でもことごとく「実証的に」解明することは不可能と断ったうえで、「理論的に」分析することが強調されている。19世紀以降の西洋史学はレオポルト・フォン・ランケが「実証史学」の方法を確立した*1ことによって、現代に至るまで史料批判に基づく実証を重視する潮流が連綿と続いていることは言うまでもないだろう。それでは、近代以降の歴史学の基本である「実証」を諦めた『共同体の基礎理論』に歴史学的な側面での意義はないのであろうか?

 事実、編者である小野塚の解説によると、『共同体の基礎理論』に対してはこれまで多くの実証的批判がなされてきた。しかし一方で、同解説では大塚が実証的立場からの批判があることを前提として『共同体の基礎理論』を著したことも示唆されている。それは、先に述べた「地図のたとえ」の全貌を見ることで明らかになる。

 

地図は現実の地形に基づいて作られたのであって、現実の地形が地図に従って作られたのではない。もし両者の間にくいちがいが見出されるならば、地図の読み方が正確である限り、もちろん訂正されねばならぬのはつねに地図の方であって、地形ではないはずである。*2

 

 つまり、地形=史実、地図=『共同体の基礎理論』とした際に、史実と『共同体の基礎理論』の間に齟齬がある場合は、(誤読や誤解がない限りは)修正されるべきは『共同体の基礎理論』なのである。翻ってこのことは、大塚にとって『共同体の基礎理論』が逐次、観察結果(つまり史実)に合わせて軽々と変更されてよいものではなかったことを意味する。より簡潔に述べるならば、この基礎理論はつねに史実からの批判に晒されており、「○○な点で史実と異なる」だとか、「事実に反する」だとかいった批判が投げかけられたとしても、決して破綻しないような頑強な理論を構築する必要があった*3

 大塚は、ある史実の一片を切り取って、それを「時代の特徴」とするような、理論に無自覚な(没理論的な)歴史叙述に厳しく批判的であったという*4。事実、大塚は戦中に翼賛派から危険書物と指定された『欧州経済史序説』などを筆頭に、1930年代から一貫して経験科学に基づく理論的研究を著してきた*5。そうした党派性や思想闘争を前面に押し出した大塚の理論研究は、1960年代の『国民経済』論へと結実するが、当時の大塚は早くもイギリス帝国の「多角的貿易決済システム」の存在を捉えていたことが示唆されている*6。多角的貿易決済システムを初めて本格的に扱った研究がS.B.ソウルによって1960年に上梓された『世界貿易の構造とイギリス経済1870-1914』(原題:Studies in British Trade 1870-1914 )であることを考えると*7、当時の大塚がいかに先進的であったかが分かる。

 『共同体の基礎理論』においても、大塚の先進的な側面はうかがえる。例えば、共同体のアジア的形態が血縁関係や共同態規制によって人間を土地に縛り付けたのに対し、西洋に見られた古典古代的形態やゲルマン的形態が積極的に新たな土地を占取し、資源を獲得していったことで近代化への移行を可能としたというロジックは、扱う時代はやや異なるものの、K.ポメランツの大分岐論*8(原著:2000年)とも通底するものがある。もちろん、ポメランツは西洋中心主義からの脱却という大塚とは真逆の歴史観を掲げて大分岐論を提起しているが、いわゆるマルサスの罠問題に対してアジア(中国や日本)が国内交易で食糧需要を満たそうとした一方で、西洋が海を越えて長距離貿易に乗り出したとする点*9はアジア的共同体とゲルマン的共同体の比較を彷彿とさせる*10。また、大分岐論の論旨でもある西洋の新大陸(南北アメリカ)への進出を「新たな土地の占取」として見ると、スケールの大きさの違いはあれども、相似なフレームワークとして解釈できる。

 また、大塚の研究の先進性はその他の側面でも指摘されている。先述の『欧州経済史序説』(1938年)において、商業革命を起点とした世界商業戦として資本主義発達史を概観している点はI.ウォーラーステイン世界システム論(1974年)と類似するし、理論経済学フレームワークに基づいて、多くの二次文献から抽出した史実によって肉付けしつつ、大胆な仮説を提起する研究手法はJ.ドゥフリースの勤勉革命論(2008年)とも共通するという*11。つまり、大塚史学は世界システム論などの海外の成果に先駆けた「大きな歴史」(河合は「大きなものがたり」としている)のひとつであった。大塚は近年隆盛を極めているグローバル・ヒストリーの萌芽*12ともいえる歴史観を1930年代からすでに自力で構築してきたのである*13

 大塚がこうした先進的な歴史観を構築できた理由は、「いま、いかなる歴史(過去の叙述)が求められているのかを意識しながら、その「いま」を何と見て、その将来に何を展望するのかという、強烈な現状認識と未来への投企」*14を有していたからに他ならない。大塚は歴史を通じて常に市井との対話を求め、現代的な問題と向き合い続けた。大塚史学は歴史理論であると同時に未来志向の歴史学なのである。

 一方で、大塚史学のような理論的研究は、以下の2点の理由から近年着手しづらくなっているという現実もある。1点目は日本に固有の問題であると言えよう。近年の日本の外国史研究は、国内ジャーナルであっても著者自ら一次史料にあたり、実証的な論文を書くことが求められている。そもそも大塚が研究者として生きた戦中・戦後は、日本人にとって西洋現地に赴いて史料を渉猟することが難しい時代であった。したがって、大塚は二次文献を用いて理論的研究に「着手せざるを得なかった」という方が正しい。時代は進み、現代では日本人の研究者でも現地で史料を取得することが可能となり、なかには海外で博士号を取得する者も現れるなど、本場西洋と遜色ない実証的研究が日本人の間でも行われている。しかし、実証主義的方法は一方で、対象を地域的にも時間的にも限定してしまうというデメリットがある。史料収集の敷居が下がり、日本人研究者にも「実証」が求められるようになったことで、高い実証性を維持しつつ、広い地域や時間を対象とした大きな議論を展開することが難しい時代になっているのである*15

 2点目は世界的に共通する問題である。昨今グローバル・ヒストリーが隆盛を極めていると言っても、歴史学に「実証」を求める声はいまだ世界でも根強い。例えば、イギリス帝国史家で「ジェントルマン資本主義論」を提唱したP.J.ケインとA.G.ホプキンズは、世界システム論の実証性に疑問を呈しつつ、ウォーラーステインを「歴史家ではなく社会科学者」と批判的に評価した*16。「大きな歴史」はある程度理論に依拠せざるを得ない以上、地域的多様性を重視する実証史家からは反発を受ける傾向にある*17。こうした実証と「大きな歴史」の対立構造は、後述するように評者が学んできたイギリス帝国史の文脈でもしばしば見られる*18ことから、歴史学における永遠のテーマなのかもしれない。

 大塚史学や「大きな歴史」のような、理論に依拠した歴史研究は確かに実証性に乏しい側面もあるが、逆に細かなケースや地域ごとの差異に拘泥することなく、明快かつ骨太な歴史像を描くことができるという点で有益であると考えられる*19。小野塚が本書の解説でも述べているように、こうした頑強に構築された理論研究は、事実と異なる記述や誤解・曲解が含まれていたとしても、それだけで崩壊するものではなく、学問の新たな展開に道を開いている*20。河合の言葉をそっくりそのまま借りる形となるが、大塚の理論的な研究手法がオリジナルな経済史研究として評価されづらくなっているいまだからこそ、「大塚の「方法」はいまだに経済史の一つの可能性を示しているように思われる」*21

 最後に、評者の立場と研究領域から大塚の理論的方法について考えてみたい。評者は研究機関に属さない、いわゆる「在野」という立場でイギリス帝国史やインド近現代史を学んでいる。日本で社会人として暮らしながら研究機関の支援を得ることなく、自力で外国史の研究を行うことは容易ではない。特に実証的な研究を行ううえで必須とされる一次史料の入手は、経済的・時間的な制約から極めて難しい立場にある。したがって、評者の調査・研究の方法は大塚らと同様、二次文献に依拠したものとならざるを得ない。一方で、海外文献の入手は大塚らの時代に比べると、Amazonなどのネット通販の発達やJSTORといった論文のオープンアクセス化によって容易となったと言えよう。このような環境から、主に英語・日本語による二次文献を収集し、研究ノートじみた書評や論考を発信している。

 しかしながら、二次文献に頼らざるを得ない状況にありながらも、歴史学というものは第一に「実証」が重要であるという偏見に囚われていたことは否めない。そんな自身の立場からでも可能な貢献はないかと、ニッチなトピックや人物に着目する方法を試みたものの、マニアックな地域史の論文や同時代人の著作から暫定的に過去を再現するというのが関の山であった*22。もともと評者にとって歴史学とは、実証研究を積み重ねた末に、より大きな範囲を扱った総論に発展するものという解釈であった。この理解を念頭に置くと、上記の試みは無駄とまでは思わないものの、結局はより細部の調査とより多角的な観点を網羅しなければ、実態は見えてこないのではないかという限界も感じられた。実証とグローバル・ヒストリーの接合は近年活発に試みられているが、一流の歴史家たちが力を合わせてようやく着手できる高度な方法だったのである。

 そんな評者にとって、大塚の「歴史を理論化する」という方法は、back-to-basics的でありながらも目から鱗であった。時代は違えど、大塚と同じように一次史料の入手が困難な立場にいる評者にとって、二次文献に依拠した「理論的な歴史学」は実証的な方法に比べるといくらか現実的である。しかもそれが昨今の日本では着手されづらくなっているというのだから、在野という立場から貢献できる可能性も開かれている。もちろん、大塚史学に匹敵する理論は一朝一夕で構築できるものではないため、相応の努力が必要なのは言うまでもないが、先に引用したようにアカデミアの研究者である河合もその方法論としての可能性を認めていることから、一考の価値はあるように思われる。

 では、評者が中心的な課題としているイギリス帝国史の文脈では、大塚のような「歴史の理論化」や「大きな歴史」を描く試みはどのような位置付けとなるだろうか。実は、すでに述べたように本場イギリスの帝国史研究においても、「実証」と「大きな歴史」との激しい対立は存在する。イギリス帝国史研究において、初めて一国史的な枠組みを打破し、「大きな歴史」を描こうと試みたのはR.ロビンソンとJ.ギャラハーによって提唱された「自由貿易帝国主義論」であった。この学説は冷戦期において提唱され、実証的な側面でも高く評価されたことから、実証と抽象を両立し得た優れた理論であった。しかし、冷戦が終わりグローバリゼーションの潮流が活発化すると、もはやこの理論では説明できない課題にも直面することとなり、新たな理論的枠組みが必要となった。そこで登場したのが、ポストコロニアル論や帝国の文化的側面に着目した「新しい帝国史」と呼ばれる試みである*23

 「新しい帝国史」の代表的研究者の一人であるジョン・マッケンジー自由貿易帝国主義論などの従来の帝国史研究を「文書館とそこにある文書に取り憑かれている」と評し、エリート層や男性以外が有した「意図」(minds)も探求すべきと主張した。そのために着目されたトピックは、新聞、大衆文学、切手、絵はがき、劇場、写真、映画、テレビ、ジェンダー、移民、医療、環境、人種概念、狂気(などの感情)、性、博覧会、教育…など、ここでは挙げきれないほど多岐にわたり、マッケンジーはこれらを「帝国主義研究シリーズ」(Studies in Imperialism Series)として包括し、100巻以上にわたって編集・出版してきた*24。しかしながら、文化や環境に着目して新しい理論的枠組みを提示しようとするこれらの研究は、案の定と言うべきか、政治や行政、軍事、戦略などの伝統的な分野を研究してきたイギリス史家たちによって、「領域侵犯」として厳しく非難されることとなる*25。それほどロビンソン=ギャラハーによる「自由貿易帝国主義論」のパラダイムは根強いものであり、先述のケイン=ホプキンズによる世界システム論への批判も、類似する構図として捉えることができよう。

 一方で、「新しい帝国史」は世界システム論に端を発するグローバル・ヒストリーとも結びつき、着実に支持者を増やしている。例えば、C.A.ベイリはインドの地域研究から出発し、イギリス帝国の経験を一国史的に捉えるのではなく、「全体としての帝国史」として捉えることを提起した新しい理論的枠組みの提唱者である。ベイリの依拠する枠組みはグローバル・ヒストリーのそれに他ならないが、彼の歴史観は従来のグローバル・ヒストリーとはやや異なり、単にモノ・カネの世界的な動きを追うものではない。ベイリは衣・食・病・言語など、グローバルな展開が一見したところ見えにくいミクロなもの、ローカルなものをその場に閉じ込めないでグローバルに考えることを重視する*26。マッケンジーの重視する帝国の文化的側面をグローバルな視野で捉えるという意味で、「新しい帝国史」の特徴を受け継いでいると言えよう。また、こうしたマッケンジーやベイリの研究に触発されて、伝統的な一国史(いわば「古い帝国史」)から「新しい帝国史」へと転回を遂げた歴史家もおり、『イギリス国民の誕生』で名を馳せたリンダ・コリーがその一人である*27

 上記のように、「新しい帝国史」は先行研究が見落としてきたものやまだ用いられていない概念・理論を積極的に活用して、グローバルな視野で歴史を捉えようとする。こうした方法論への態度は、歴史学に経済学や社会学文化人類学といった他分野の方法を取り入れようとした大塚の方法論とも共通する*28。イギリス帝国史の最近の潮流と大塚の研究を参照する限り、世界的な基準で見てもグローバルな視野を保ちながら歴史の抽象化・理論化の有用性にもっと目を向けていくべき時代であるように感じる。

 19世紀にランケが実証史学の方法を確立して以来、歴史学=実証という観念はいまだ根強い。それゆえ、大塚のような理論構築を目指す歴史学研究の方法は、一見すると研究史上の逆行のように見えなくもない。しかし、実証主義の方法にもデメリットがあることは先に述べた通りであるし、反対に理論に依拠して「大きな歴史」を描こうとする試みの有用性も世界的には注目されている。歴史学を社会科学の一領域として、人類や世界の理解に寄与させるためには、高度な抽象化や緻密な一般化による頑強な理論の構築と、過去をあるがままに再現する実証のバランス感覚が重要なのではないか。大塚の実践してきた「理論としての歴史学」は、時代を超えていまもなおそうした教訓を与えてくれるはずである。

 

参考文献

・イッガース、G.G. (中村幹雄、末川清、鈴木利章、谷口健治訳)『ヨーロッパ歴史学の新潮流』晃洋書房、1986年。

・井上巽『金融と帝国—イギリス帝国経済史—』名古屋大学出版、1995年。

大塚久雄『社会科学の方法—ヴェーバーマルクス—』岩波書店、1966年。

・河合康夫「大塚久雄の「方法」をめぐって」梅津、小野塚編『大塚久雄から資本主義と共同体を考える—コモンウィール・結社・ネーション』日本経済評論社、2018年、203~209頁。

・小林純「国民経済と経済統合」梅津順一、小野塚知二編著『大塚久雄から資本主義と共同体を考える—コモンウィール・結社・ネーション』日本経済評論社、2018年、87~134頁。

・ディリー、アンドリュー(福士純、松永友有訳)「ジェントルマン資本主義論が言わずにすませ、見ずにすませていること—ブリティッシュ・ワールド論との関連で—」竹内真人編著『ブリティッシュ・ワールド—帝国紐帯の諸相』日本経済評論社、2019年、97~139頁。

・平田雅博『ブリテン国史のいま—グローバル・ヒストリーからポストコロニアルまで』晃洋書房、2021年。

ポメランツ、K. (川北稔監訳)『大分岐—中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成』名古屋大学出版、2015年。

 

*1:ランケによる実証史学の方法の確立については、G.G.イッガース(中村幹雄、末川清、鈴木利章、谷口健治訳)『ヨーロッパ歴史学の新潮流』晃洋書房、1986年、13~21頁を参照。

*2:本書、17頁。

*3:小野塚知二「解説」本書、371~372頁。

*4:同上、373頁。

*5:小林純「国民経済と経済統合」梅津順一、小野塚知二編著『大塚久雄から資本主義と共同体を考える—コモンウィール・結社・ネーション』日本経済評論社、2018年、104頁。

*6:同上、106頁。

*7:井上巽『金融と帝国—イギリス帝国経済史—』名古屋大学出版、1995年、6頁。

*8:K.ポメランツ(川北稔監訳)『大分岐—中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成』名古屋大学出版、2015年。

*9:同上、248頁。

*10:マルサスの罠に関しては、大塚も土地の人口収容力という概念を用いていることから、意識していたものと思われる。ただし、大塚は土地の人口収容力の上昇、すなわち農業生産の発達が古典古代的共同体をゲルマン的共同体へと発展させるとしたが、ポメランツはそうした近世的な経済成長ではマルサスの罠からは脱却できないと一蹴しており、土地に賦存する資源の限界をよりシビアに捉えている。本書、161~163頁、ポメランツ『大分岐』、5頁。

*11:河合康夫「大塚久雄の「方法」をめぐって」梅津、小野塚編『大塚久雄』、205~206頁。

*12:ただし、大塚の学説が「大きな歴史」という点でグローバル・ヒストリーと近しい特徴を有するとはいえ、西洋中心主義的かつ一国史観的なものであるという批判は否定できないと考えられるため、ここでは「萌芽」とした。河合も大塚の研究を「世界システム論には至らなかったが」と断っている。河合「大塚久雄の「方法」」、205頁。

*13:小林は次のような丸山眞男の金言を紹介している。「丸山眞男がこう話していた。大塚史学は輸入学問ではない、これは時代的に大変なことだったのだ、と。「大塚さんは自前でつくった」、彼が旗をかかげ、それを受けて「ぼくらは担いだんだ」、と」。小林純「国民経済」、126頁。

*14:小野塚「解説」、373~374頁。

*15:河合「大塚久雄の「方法」」、204~205頁。

*16:同上、205頁。

*17:とはいえ、ケインとホプキンズのジェントルマン資本主義論も、その実証性に疑問を呈する声は決して少なくないのだが…。例えば、アンドリュー・ディリーはジェントルマン資本主義論におけるサーヴィス・セクターの分類の甘さや、政治的議論が捨象されている点を綿密に検討している。アンドリュー・ディリー(福士純、松永友有訳)「ジェントルマン資本主義論が言わずにすませ、見ずにすませていること—ブリティッシュ・ワールド論との関連で—」竹内真人編著『ブリティッシュ・ワールド—帝国紐帯の諸相』日本経済評論社、2019年、97~139頁。

*18:平田雅博『ブリテン国史のいま—グローバル・ヒストリーからポストコロニアルまで』晃洋書房、2021年はそうした最近のイギリス帝国史の潮流がコンパクトに紹介されている。

*19:河合「大塚久雄の「方法」」、207頁。

*20:小野塚「解説」、374頁。

*21:河合「大塚久雄の「方法」」、207~208頁。

*22:ヒンドゥスタン・タイムズ紙とその周辺人物を、二次文献に依拠して精査した以下の拙稿は、そうした試みのひとつであった。【書評】ヒンドゥスタン・タイムズの黎明期を知る:1924~32年──The Hindustan Times (Prem Shankar Jha, Arvind N. Das, Brinda Datta, et al.) ed., History in the Making: 75 Years of The Hindustan Times (New Delhi, 2000), 198pp., available at https://dendro-bium.hatenablog.com/entry/2021/08/28/180000 (accessed Feb. 19, 2022).

*23:平田『ブリテン国史』、1~10頁。なお、ケインとホプキンズのジェントルマン資本主義論も、そうした新たな枠組みの必要性に応えるべく提起された、自由貿易帝国主義論を批判的に踏襲する理論のひとつであるが、前述の通り修正を求める声も少なくない。

*24:シリーズ一覧は以下の出版社ホームページで確認できる。Available at https://manchesteruniversitypress.co.uk/series/studies-in-imperialism/ (accessed Feb. 19, 2022).

*25:平田『ブリテン国史』、54~68頁。

*26:同上、118~134頁。

*27:同上、177~178頁。

*28:大塚は、マルクスの経済学とヴェーバー社会学の科学方法論が無縁だとする主張に対して、それらを歴史学に導入することで交錯し得ることを示唆している。大塚久雄『社会科学の方法—ヴェーバーマルクス—』岩波書店、1966年、73頁。文化人類学の成果の導入については本稿でも説明したように、本書『共同体の基礎理論』の随所で確認できる。