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【書評】Medha M. Kudaisya, The Life and Times of G.D. Birla (New Delhi, Oxford University Press, Paperback Edition, 2006)

Medha M. Kudaisya, The Life and Times of G.D. Birla (New Delhi, Oxford University Press, Paperback Edition, 2006), xii+434pp.

The Life And Times of G. D. Birla (Oxford India Paperbacks)

The Life And Times of G. D. Birla (Oxford India Paperbacks)

 

 

 本書はインドの巨大財閥の一角、ビルラ財閥の創始者であるガンシャムダス・ビルラ(Ghansyamdas Birla:以下、G.D.ビルラおよびG.D.と略記)の生涯を記した評伝である。ビルラ財閥は1920年代のジュート工場設立を機に瞬く間に事業を多角化していき、名実ともにタタ財閥と並び称される最有力財閥へと成長した。ところで、現在ビルラ財閥という呼称の財閥は存在しない。かつてビルラ財閥と呼ばれた企業群は、いまでは6つないし7つの系統に分裂している。そのなかでも突出した規模を誇っており、事実上の本家とされるのが、G.D.ビルラの孫の名前を冠するアディティヤ・ビルラ・グループである*1。本書はG.D.ビルラの出生から、ビルラ財閥の立ち上げ、多角化・分裂を経て、孫アディティヤ・クマール・ビルラに事業が継承されるまでを描いており、扱う時代は実に130年間を超える。

 従来のG.D.ビルラに関する研究は、ラーム・ニワス・ジャージュによるG.D. Birla: A Biography*2とアラン・ロスによるThe Emissary: G.D. Birla, Gandhi and Independence*3の2点が確認されている。前者は初版がヒンディー語1984年に、英語版が1985年にそれぞれ出版された世界初のG.D.ビルラの評伝である。後者はその翌年、1986年の刊行された。いずれもG.D.ビルラの生涯を追ったスタンダードな研究といえる。しかし、いずれの評伝も注釈は付されておらず、前者にいたっては参考文献一覧も確認できなかった*4。一方で、後者は注釈こそ付されていないものの、一次史料としてG.D.ビルラやガンディーの著作を中心に用いており、タイトルからも伺えるように、よりガンディーとの関係性に着目した内容となっている。上記2点と比べて本書の方法論的な卓越性は、初めてG.D.ビルラのプライベート・ペーパー(通称G.D.ビルラ・ペーパー)を活用したことにある。G.D.ビルラ・ペーパーはコルカタおよびデリーのG.D.ビルラの子孫宅に保存されており、そのコピーが一部ネルー記念博物館・図書館(Nehru Memorial Museum & Library:以下、NMML)にも所蔵されている*5。また、一次史料のみならず、膨大な関連する先行研究を渉猟していることも、本書の参考文献一覧から伺える。したがって、本書は現状G.D.ビルラについて最も調べ上げられた総体的な研究といえるであろう。

 上記の特徴を念頭に置いて、以下では本書の概要を紹介しつつ論評を行っていく。ビルラ財閥は誕生してまだ100年前後と比較的歴史は浅いが、インドの独立や経済的自立化に大いに貢献してきたことが様々な研究で指摘されており、政治史的にも経済史的にも極めて意義深い存在であるといえよう。G.D.ビルラから見たインドの独立と経済発展の歴史は、現代インドないしは国際社会を理解する上で、我々に有益な知見を提供してくれるに違いない。

 本書の構成は以下の通り。

序章

第1章 ビルラ一族:ピラニからバラ・バザールへ 1858~1910年

第2章 カルカッタ・マルワーリーの最前線 1911~19年

第3章 地平線の拡大:社会的キャリアの分析 1920~26年

第4章 「マハトマの影で」

第5章 インド財閥の代弁者

第6章 ナショナリスト政治の潮流の中で

第7章 一族の重要な10年

第8章 戦時期

第9章 インド分割の政治経済学

第10章 マハトマへのもてなし

第11章 最盛期:二頭政治の時代

第12章 ネルー主義への転換

第13章 ネルー社会主義

第14章 ネルー政権下インドのビジネス・チャンス

第15章 密かな改革:シャストリ政権時代の展望

第16章 新しい政治との不和

第17章 晩年

レガシー

 上記からも明らかなように、本書は扱う時代が幅広く、章立ても序章含め全19章からなる大作である。章ごとに概要を紹介することは現実的ではないため、①出生から少年時代(~1910年代)、②青年時代(1910~20年代)、③政治参加時代(1930~50年代)、④晩年(1960年代以降)という4つの区分を設けて、G.D.ビルラの一生涯を紹介していく。

 

1.出生から少年時代(~1910年)

 G.D.ビルラの出自を語るには、彼の一族が伝統的に所属していたコミュニティについて説明する必要があろう。ビルラ一族はマルワーリー(Marwari)と呼ばれる商人階級で、祖父シブナラヤン(Shibnarain Birla)は22歳の頃にボンベイ(現ムンバイ)へ移住し、商業活動を始めた。もともとマルワーリーは出身地を離れて商業活動を営む離散的な商人集団とされており、その理由はマルワーリー商人の出身地であるラジャスターン州シェカワーティ地方ピラニ県が痩せた土地で商業的機会に恵まれていないことにあった。また、イギリスによる植民地支配をきっかけとして商業ルートが縮小した結果、地元ピラニに居を構えての活動が不可能となり、1860年代からカルカッタ(現コルカタ)やボンベイを中心としてマルワーリー商人の移住が活発となった。ビルラ一族で初めに移住を行ったのはシブナラヤンであり、ビルラ財閥は彼がボンベイへと移住した1860年をビルラ財閥誕生の年としている*6

 シブナラヤンの息子バルデオダス(Raja Baldeodas Birla:すなわちG.D.の父に当たる)は、シブナラヤンとともに商業活動に励むなかで主にアヘン取引で富をなし、カルカッタボンベイにそれぞれ支店を出すに至った。財閥の前身ともいえる合同家族企業体制の確立である*7。インド西端のボンベイとインド東端のカルカッタという正反対に位置する2つの地域でしばらく活動した後、1896年にボンベイで鼠経腺腫という疫病が流行したことをきっかけに、ビルラ一族はカルカッタに活動の中心地を移すこととなる。このときに商業活動の拠点となったのが、バラ・バザール(Bara Bazaar:ヒンディー語で「偉大な市場」の意)であった。バラ・バザールではマルワーリー商人とイギリス商人の間で、綿やジュートの取引において強固な協力関係がすでに築かれており、新しく移住してくるマルワーリー商人にとっても活動のしやすい土壌が整っていた。ボンベイでの疫病の流行が結果的にビルラ一族のカルカッタでの活動を促進し、そこで得られた収益や人脈が後に工業参入のための前期的資本になったといわれている。

 この間、1894年にG.D.ビルラが生まれる。ちょうど一族がカルカッタでの活動に集中し始める直前である。とはいえ、生まれたのは地元ピラニであり、9歳までピラニで育てられた。祖父のシブナラヤンは将来的に家業を継がせることを考え、これからの時代は英語が重要であるとして、幼いG.D.に英語の英才教育を施した。その甲斐あって、9歳の頃にはすでに英語で電報を打てるようになり、それと同時にバルデオダスの住むカルカッタへと送り込まれた。しかし、カルカッタの学校では授業についていけず、サボり癖のある不良少年として、歳の離れた兄ジュガールキショール(Jugalkishore)を困らせたという。日々学校に行くふりをしてカルカッタの街を練り歩いたG.D.は、幼くしてビジネスの現場に深く触れることとなり、この経験がむしろ彼のビジネスへの関心を目覚めさせた。

 また、G.D.は幼いころから宗教的な環境で育ってきた。ビルラ一家は敬虔なヒンドゥー教徒で、G.D.はマハーバーラタやバガヴァッド・ギーター、ラーマーヤナなどの聖典を、朝3時間かけて読まされた。詳しくは後述するが、こうした宗教的な経験は、後にガンディーらナショナリストとの交流につながった。

 G.D.は12歳のときにボンベイでビジネスシーンのデビューを飾る。若くしてすでに卓越した英語を操り、西洋人相手の交渉という重要な役回りを任された。また、同年に祖父シブナラヤンの計らいで同郷シェカワーティ地方出身のジュート・麻布商名家の娘ドゥルガーデヴィ(Durgadevi)と結婚している*8。しかし、ドゥルガーデヴィは1909年に第一子を生んで間もなく結核で他界してしまう。失意に沈むG.D.であったが、家族の強い勧めもあって3年後の1912年、18歳のときにアッサム・オイル社の娘マハーデヴィ(Mahadevi)と再婚する。彼女の父は熱心なヒンディー語ナショナリズム運動の支援者で、その兄は総督から勲章を受けるなど、いずれにしても名家の出身であった。

 G.D.が再婚するまでにビルラ一族の業務体制は大きく変化している。まず、1910年に祖父シブナラヤンが逝去している。また、父バルデオダスはシブナラヤンの死後間もなくして、バナーラス(Banaras:現ヴァーラナシー)で占星家の啓示を受けて引退を決意した。46歳という若さであったが、55歳までの命と予知され、残りの10年余りを敬虔なヒンドゥー僧として生きることを決めた。結果的にバルデオダスは93歳まで生き、引退後も様々な局面でG.D.の経済活動を裏で支え続けた。

 様々な困難に見舞われながらも、16歳という若さで2人の兄とともに一族の事業を担うこととなったG.D.であったが、以降カルカッタを中心にビジネスシーンで類稀なる功績を残していく。G.D.の産業資本家としての伝説は10代から始まった。

 

2.青年時代(1910~20年代)

 1911年のバルデオダスの引退を機に、G.D.もボンベイからカルカッタへと活動の拠点を移す。カルカッタ移住後は、アヘン貿易を安定的な収益源としつつ、マルワーリー商人として初めて日本の三井財閥との綿布取引に着手した*9。また、前妻ドゥルガーデヴィの父とともにG.M.ビルラ社(Ghanshyamdas Murlidhar Birla:Murlidharは前妻の父の名前)を立ち上げ、後の工業参入と多角化への準備を進めた。再婚後も前妻の家族とはビジネス仲間として円満であった。

 G.D.のカルカッタでの活動は一見順調な滑り出しに見えたが、カルカッタのマルワーリー・コミュニティでは年配層を中心とした保守派と若年層を中心とした急進派との間で分断が見られた。特に反物市場で、保守派の取引する西洋企業は概して排他的で、若年層の新規参入ができない状態にあったためである。反物市場から締め出された若年層は、次第に急進的なナショナリスト思想に傾倒していき、スワデーシ(国産品愛用)運動を展開するようになった。このような分断のなか、1914年にG.D.はロッダ事件に巻き込まれる。カルカッタ有数の武器商社であるロッダ社の武器庫から202ケース分の銃と弾薬が盗まれた事件である。当時のG.D.はスポーツクラブの経営で若年層から絶大な支持を受けており、ロッダ事件を起こした6人の若いマルワーリー商人と交流があったことからG.D.にも関与の疑いがかけられた*10

 テロリストの疑いをかけられたG.D.は、南インドを大きく迂回してラジャスターン州のプシュカルへと逃れ、そこでロッダ事件のほとぼりが冷めるまで3ヵ月ほど匿われた。その間、G.D.の家族は裁判所などへ根回しを行い、G.D.の社会復帰の環境を整えた。3ヵ月後、G.D.がカルカッタに戻ったときには、保守派がロッダ事件を口実に幅を利かせていたが、保守派はG.D.の実力を買ってすぐさまの商業復帰を求めた。G.D.の家族は急進的な政治観から離れるいいきっかけとなることを期待し、G.D.も保守派の提案を受け入れ、以後しばらくは政治活動から距離を置いて事業に勤しんだ。

 社会復帰後、G.D.は早速新たな事業に着手する。前妻父と経営していたG.M.ビルラ社が第一次世界大戦下においてジュート特需で莫大な収益を得て、資本蓄積が進んだことから、G.D.はジュートの工業生産の可能性を見出す。第一次世界大戦が終わる頃、ジュートは流通のどの局面を切り取ってもマルワーリー商人が支配的な産業に成長していたが、工業生産に関しては資金調達の難しさ*11などから西洋資本が排他的に跋扈しており、インド資本によるジュート工場は前例がなかった。G.D.は戦時下にジュートで得た利益を前期的資本とし、最低限の初期費用を銀行から借り入れることで資金調達面をクリアしたが、工場運営にかかる逓増的なコストが次なる難関であった。採算が合わないと踏んだG.D.は、当時国内最大手のジュート工場を擁したアンドリュー・ユール社に売却を試みる。しかし、売却の話を持ち掛けにアンドリュー・ユール社を訪れた際に、スコットランド人マネージャーから「インド人がジュート工場を設立するなど厚かましい」という人種差別的発言を浴びせられる。このことがきっかけでG.D.は売却を取りやめ、必ずやジュート工場を設立して西洋企業による独占を打破することを自らの心に誓った。結果、当初予定していた工場の規模を縮小させることで資金面の難点を解決し、1919年にビルラ・ジュート工業社(Birla Jute Manufacturing Company:以下、ビルラ・ジュート)を登記へと漕ぎつけたのである。ジュートの需要自体は戦後も好調で、ビルラ・ジュートは1920年代を通して安定的に成長し続けた。

 ビルラ・ジュートの経営状況は先進的であったため、少し補足をしておこう。まず、人材については、技術・管理業務の双方で適任となるインド人労働者が存在しないというゼロからのスタートであったため、当初は経験のある2人のスコットランド人を経営マネージャーとして雇った。しかし、2人のマネージャーに業務を教わるインド人たちは、自らに十分なスキルが身につき次第、彼らをすぐにでも追い出そうと考えていた。インド人従業員による「インド化」の試みが見られたのである*12。また、財務管理の方法はG.D.の緻密な性格が反英された独特なものであった。G.D.は機械一台ごとの生産効率や収益性、それにまつわる統計を自らの目で逐一チェックし、年度予算は月割・週割・日割にまで分けられ、1日単位で損益を把握するよう努めていた。こうした会計制度はパルタ・システム(parta system)と呼ばれ、マルワーリー商人の伝統的な勘定制度を工業に応用したものである。パルタ・システムは正確性よりも財務報告の速さに重きを置いており、日々の生産力向上に大きく貢献した。ビルラ財閥はこのシステムを21世紀に入るまで遵守し続け、1980年代までに総額1億ルピーの節約をもたらしたという*13。ビルラ・ジュートの好調で勢いをつけたG.D.は、1920年に英系資本の綿紡績工場を買収し、綿工業にも乗り出す。これに先立って、経営上の決定権をG.D.に集約させるために、1919年にG.M.ビルラ社をたたんでビルラ・ブラザーズという経営代理店を設立している。これが事実上の財閥体制の始まりであり、ビルラ一族の商人から産業資本家への転身であった*14

 ビルラ・ブラザーズ設立以降、1920年代は一貫してビルラ財閥の多角化の時代であった。後述の論点との関連で特筆しておきたいのは、新聞産業への参入である。1920年、英系夕刊紙のエンパイア紙(Empire)を買収し、ニュー・エンパイア紙(New Empire)と改名、報道は商業・金融的なトピックとスポーツが中心であった。また、1922年にはG.D.の活動を全面的に支持していたベンガリー紙(Bengalee)をスレンドラナート・バナージより譲り受ける。編集方針は変えないことを公言し、中立的な立場をアピールした。上記2紙の例からもわかるように、ロッダ事件以降は相変わらず政治から距離を置いていたことが伺える。一方、1925年にシク教徒のリーダーから買収したヒンドゥスタン・タイムズ(Hindustan Times)は1930年代以降、独立運動に加担するなかで、プロパガンダに極めて重要な役割を果たす。なお、G.D.が新聞産業に参入したきっかけは未だよくわかっていない。当時は新聞産業においても西洋資本が席巻していたことから、一説によると、商業新聞を支配することで工業とは別の側面で西洋資本に対抗しようとしていたと推測されている。また、カルカッタ商業界の知識人を新聞を通じて支配することで*15、ビジネス・シーンを牛耳る目的もあったという。これらは仮設の域を出ないが、いずれにしろ新聞産業においても西洋資本の寡占状態を打破したことは快挙であり、G.D.はその実績から「新聞王」(Press Baron)と称されるようになっていた。

 事業の多角化に伴い、G.D.は意識的に距離を置いていた政治の世界にも徐々に再関与していくこととなる。ロッダ事件以降のG.D.の「非政治的」態度はベンガル政府ロナルドシー卿の目に止まり、1921年ベンガル立法議会への参加を推薦される。ロナルドシー卿は若者から絶大な支持を受けながらも政治運動に加担していなかったG.D.こそ急進派を抑止できると考えており、一方でG.D.はこの誘いをマルワーリー商人の利益拡充の好機と捉えた。しかしながら、実際にはG.D.は事業の忙しさのあまり議会は欠席が続き、1922年には早くも辞任している。ただし、G.D.の政治への関与はこれに留まらない。1920年代といえばガンディー率いる国民会議派(National Congress)の非協力運動が盛んとなった時代でもあり、マルワーリー商人も若年層を中心にこれに熱狂した。保守派と急進派との分断はさらに加速し、G.D.のリーダーシップにも徐々に陰りが見え始める*16。また、社会復帰の機会を与えてもらった保守派からも、カースト差別に関する論争*17がきっかけで破門されるに至った。このような状況で、行き場を失ったG.D.がガンディーらとのつながりを求めるのは必然であった。

 国民会議派との交流のなかで、G.D.に影響を与えたのはガンディーだけではない。ヒンドゥー教復興運動家のマダン・モハン・マラヴィヤ(Madan Mohan Malaviya)は、カースト(ジャーティ)等の伝統的なヒンドゥー観に囚われず、インドの工業化の必要性を熱心に説くなど、G.D.の資本家としての立場とは相性が良く、G.D.の政治活動の手本となった。ちなみに、先述したヒンドゥスタン・タイムズ買収の話をG.D.に持ち掛けたのはマラヴィヤである*18。また、ララ・ラジパット・ラーイー(Lala Lajpat Rai)もG.D.に大きく影響を与えた国民会議派の一人である。彼はガンディーよりもやや急進的な思想の持ち主であり、G.D.とともにガンディーの非協力運動を「生ぬるい」と批判していた。ラジパット・ラーイーはアメリカの歴史家キャサリン・メイヨー(Katherine Mayor)の著した『母なるインド』(Mother India)*19に対する返答書として、『ヤング・インディア』(Young India)、『イギリスのインドへの負債』(England’s Debt to India)を出版するが、G.D.はこれらの出版活動を全面的に支援した。

 もちろん、G.D.にとってガンディーとの交流も極めて意義深いが、上記2名との交流は特にG.D.の政治的関心を目覚めさせ、1926年には確固たる意志を持ってカルカッタ立法議会選に出馬する。商人から資本家へと転身した経験から社会問題に対する活躍を期待され、7割以上の得票数で大勝した。以降、G.D.の人生に政治は切っても切れない存在となった。もともとG.D.に期待されていたのは莫大な資本力による財政支援能力であったが、次第に政治的な手腕にも注目され始める。1930年代以降のG.D.は、多角的な事業を営む資本家として様々な社会問題に目を向け、常に実践的な立場から政治活動に邁進していくこととなる。

 

3.政治参加時代(1930~50年代)

 インドがイギリスから独立するのは1947年のことであるが、独立後、国際社会のなかで自立した一国家として存続していくための模索は1930年代から1950年代まで一貫して行われた。また、この間G.D.の政治的権威は単峰的な軌跡を描いた。1930~50年代という区分を設けたのは、G.D.の影響力とインドの独立に極めて親和性があるためである。この30年間はインド史上で最も社会に変動が起こった時期であるため、全ての出来事を紹介することはできないが、G.D.の生涯においてターニングポイントとなった事例を10年ごとに見て行きたい。その前に、1930年代の政治活動に先立って、G.D.を取り巻く環境が大きく変化したことにも触れておこう。まず、1926年に2人目の妻マハーデヴィが結核で他界している。翌年、1927年には土着の産業の発展を目的として、ボンベイの有力資本家プルショッタムダス・タクルダス(Purshotamdas Thakurdas)とともにインド商工会議所連盟(Federation of Indian Chamber of Commerce and Industry:以下、FICCI)を設立した。欧州の地に降り立ったのもこの年が初めてであったが、自国を植民地として支配するキリスト教社会の堕落的な実態を目の当たりにし*20、宗教的見地から独立への野心を強めた。この経験は、ガンディーの独立運動に共感を示す前提となった。1928年には盟友のラジパット・ラーイーがデモ中に警察の発砲を受けて死去した。政治的に最も影響を受けた彼との別れは、マラヴィヤら国民会議派の急進派と袂を別ち、ガンディーとの関係を強めるきっかけとなった*21

 さて、これらの前提をもとに、1930年代の議論に入って行こう。経済史的に特筆すべき事件は、為替論争と綿貿易論争である。まずは為替論争について見て行こう。かねてよりインド・ルピーとポンド・スターリングの交換比率は、インドとイギリスの間で激しく言い争われており、イギリスはスターリング安ルピー高を求めて1ルピー=1シリング6ペンスを、一方のインドはスターリング高ルピー安の状態を望んで1ルピー=1シリング4ペンスを主張していた。このような論争の真っただ中で、イギリスは1931年9月に突如として金本位制を廃止し、ルピー=スターリング為替を再定義する必要が生じた*22。FICCIを代表して英インド省との交渉に乗り出したG.D.は、他通貨との連動を禁止して新たに独自の価値を規定することを求めたが、一方でインド省はスターリング圏の紐帯を強める目的で、従来通り1ルピー=1シリング6ペンスの比率でスターリングとの連動を強行した*23。結果的にイギリス側の考えを覆すには至らなかったが、この交渉過程でG.D.とタクルダスが工業のみならず農業労働者の利益にも着目して交渉を進めたことは、インド国内において高く評価された*24。この議論におけるG.D.の最大の成果は、ガンディーら国民会議派にFICCIの経済分野における専門性を知らしめ、FICCIの主張こそがインド全体の利益になり得ることを納得させた点にあった。

 上記の為替論争と並行して進行していた綿貿易論争は、G.D.の政治的手腕が光った事例である。1920年代に日本の綿製品がインド市場にダンピングを仕掛けると、極めて不利な立場に置かれたイギリス・ランカシャーの綿業社は、1932年のオタワ帝国経済会議において英印間の綿貿易に帝国特恵関税を導入するよう求めた。当時、綿製品にかけられた輸入関税は貴重なインドの歳入源であったため、特恵関税の導入によって減少するインド政府の税収は、ランカシャーが「あらゆる手段を講じて」印棉購入量を増大させることで補填されることとなった*25。また、1933年にはタクルダスをはじめとしたボンベイの資本家らが、ランカシャーの晒業者クレア・リース(Sir William Clare Lees)とイギリス綿製品の保護、特恵関税の維持等を約束したモディー=リース協定を結んでいる。ボンベイは特に棉花の栽培が盛んであったため、特恵関税によって印棉の輸出が潤うというイギリスの甘い誘いに乗ってしまった形である*26。これらの特恵的協定に激しい怒りを露わにしたG.D.は、ランカシャー綿業社との直接交渉に乗り出す。この交渉ではG.D.の政治的真価が発揮された。ランカシャー綿業社に対して、インド政府と手を組むか、「インド人の政治家」と手を組むかの2択を迫ったのである*27。後者の選択肢を取ることは、インド人政治家による改憲の圧力が待っていることを意味した。改憲の議論へと漕ぎつけられれば、あとはガンディーの独擅場であった。この交渉術は当時、ランカシャー綿業社がインド省に対して圧力団体として機能していたことを知っていたG.D.の絶技と言えよう。結果的に、モディー=リース協定はランカシャーボンベイ間の民間協定レベルに留まることとなった*28。インド経済の代弁者を務めるとともに、改憲への足掛かりを作ろうとしたG.D.の政治的手腕をイギリスに知らしめた事例である。

 政治史の領域で重要な議論は、ネルー社会主義との対決であろう。ジャワハルラール・ネルー(Jawaharlal Nehru)は1920年代から国民会議派で活動していたが、1930年代後半になると急進的な社会主義に目覚め、ガンディーら保守派と対立を繰り広げる。先行研究では、G.D.がこの対立に際して、イギリス保守党政治家と改憲交渉を進め、インド全体の関心を改憲の議論へと向けることで社会主義の拡大を抑え、ネルーを懐柔したことが指摘されている*29。一方で、本書ではこうしたG.D.の活躍の起源を、1931年のガンディー=アーウィン協定に求めている。ガンディー=アーウィン協定とは、1930年に始まったガンディーによる第二次非協力運動の調停協定であるが、アーウィン卿は当初ガンディーの要求を相手にせず、数ヵ月間膠着状態が続くこととなった。そこで、プルショッタムダスがアーウィン卿を、G.D.がガンディーをそれぞれ説得することで間接的に2人の和解が実現した。この事件は、資本家階級が自発的に国民会議派とイギリスの双方向で交渉を繰り広げ、国内の危機に対処したという点で上記のネルー懐柔の事例と構造的に類似するというのが本書の主張である。

 1940年代は第二次世界大戦、インドの独立、インド・パキスタン分離、ガンディー暗殺と多くの議論が展開されている。紙幅の関係上、全てを説明することはできないため、G.D.の活躍という観点から、印パ分離論争とガンディー暗殺について言及しておこう。

 周知のとおり、インドとパキスタンヒンドゥー教徒ムスリム(イスラム教徒)という宗教的な違いから、1947年に分離独立した。一見宗教的な対立によって分離の道を選んだかのように見えるが、本書はG.D.の経済思想に着目することで印パ分離独立問題の経済性を強調している。結論から言うと、印パ分離論争はG.D.の望むような結末を迎えることはなかった。

 1940年代当時、ムスリム共産主義との結びつきが強く、ヒンドゥームスリムの対立が顕著な地域ではムスリムによる工場打ちこわしや労働力不足が社会的に問題となっていた。G.D.らFICCIの資本家は、共産主義と資本主義では求める利益が異なるという観点から、ヒンドゥームスリムの分離を望ましいものと考えており、分離後は「強い政府」による経済発展のために政治的主権をヒンドゥー側に集中させることを望んでいた。その実現のために策定されたのが、資本家をトップとした計画経済を敷くことで高率かつ高速な工業発展を志向するボンベイ・プランである。一方で、ムスリム代表のムハンマド・アリー・ジンナー(Muhammad Ali Jinnah)はG.D.の経済的観点からの印パ分離という案には賛同を示したが、パキスタンに主権が与えられないことには当然納得できなかった。G.D.にとって政治は経済の従属物という認識であったが、ジンナーは政治的要素を重視していたのである。こうした政治的対立を調停するためにイギリスから使節団が派遣されるが、イギリス側の提案はムスリムの肩を持つ形となり、G.D.らは受け入れることができなかった。交渉が行き詰まるなか、決裂を決定づける事件がムスリム勢力によって引き起こされる。1946年8月、4,000人が命を落としたカルカッタ大虐殺である。長年親しんできたカルカッタの凄惨な光景を目の当たりにして、G.D.は共産主義への嫌悪を深め、ムスリムとの決別を決意した。かくして、ヒンドゥームスリムはインドとパキスタンとして経済的のみならず政治的にも分離して独立することとなった。

 G.D.が思い描いていた印パ分離後の経済関係は、欧州共同体(ECCEUの前身)のような共生関係であった。しかしながら、実際の印パ分離独立はこれとは程遠い関係を規定した。ベンガル大虐殺やパンジャーブ危機の経験から、インドの資本家らは今後の危機を回避するために、暴動の起こりそうな地域にある資本(工場など)をヒンドゥー勢力の安全な地域へと移転させていた。これがもたらした分離後の経済秩序は、インド側に大部分の工業資本が割り当てられ、パキスタン側にジュートなどの原料が偏在する状況であった。印パ間の関係は「農業の機能は植民地へ、工業・金融の機能は帝国へ」という帝国経済秩序を彷彿とさせるゼロサムな構造に陥ってしまったのである。事実、印パ分離独立の動向を注視していたイギリスは、後にコモンウェルス脱退時のパキスタンの経済状況を指して、「パキスタンは自暴自棄なまでにムスリム国家(イラン、ヨルダン、サウジアラビアリビア等)からの支援に固執」せざるを得なかったと評している*30

 印パ分離独立とは対照的に、ガンディー暗殺の議論は宗教的紐帯が政治的対立を時に乗り越えることを示している。1948年1月30日、かねてよりデリーのビルラ邸に居候していたガンディーは、日課である夕刻の祈りのために庭に出た際に、ヒンドゥー原理主義団体RSSの若者に射殺される。突然のガンディーの死はインド全体に衝撃と失意をもたらしたが、RSSの活動規制や責任問題の議論が一通り終わると、ガンディーと活動をともにしてきた多くの政治家や資本家が、ガンディーの功績を将来に残そうと尽力した。主導者はもちろんG.D.が務めた。G.D.はガンディーの政治活動に対立を示すことも多かったが、ガンディーとともに駆け抜けた32年間を振り返った際に、彼の政治的魅力に惹かれたのではなく、宗教的魅力に惹かれたという。2人はいずれも敬虔なヴィシュヌ派ヒンドゥー教徒で、幼いころから宗教的な環境で育ってきた。2人にとって、ヴィシュヌ神信仰の紐帯の前では政治的信条の違いなど些細なことであった。長年問答を繰り広げてきた2人は、まるで『バガヴァッド・ギーター』におけるクリシュナとアルジュナの関係のように、師弟であり友でもあったと言えよう*31

 1950年代になると、ネルーが担う政権下でG.D.の影響力は政治的にピークを迎えつつも、緩やかに衰退をたどる。ガンディー暗殺後、新インド政府はネルーとヴァラブバーイ・パテル(Vallabhbhai Patel)との二頭統治体制を採っており、パテルはG.D.と外交政策で意気投合していた*32。ところが、1950年12月にパテルが亡くなると、権力はネルーへと集中し、再度社会主義勢力と資本家との戦いが始まった。G.D.はあくまでも資本家としての立場から政治参加してきたが、パテルという支援対象を失ったことによってG.D.の卓越した資本力は政界ではもはや機能し得なくなっていた。ネルー社会主義経済と資本家らのボンベイ・プランは、計画経済という意味では共通する特徴を有していたが、ネルーの経済政策は資本家らに優しいものではなかった。財閥の基礎となる経営代理店制度を廃止し、全ての民間企業をネルーの強権のもとに国営化しようと画策していたのである。これに対してG.D.は、1930年代の金融論争時と同様、新聞媒体を用いて民間企業がいかにインド独立に貢献してきたかを民衆に訴えかけた。こうしたプロパガンダやインド経済の苦境を目の当たりにしたネルーは、次第に急進的な政策提言を控えるようになり、民主的プロセスで政策決定を行うようになっていった。G.D.によると、ネルーは本気で社会主義革命を起こそうとしていたわけではなく、急進的な政策提言は政治的レトリックを印象付けるためのパフォーマンスという要素が強かった。資本家らはそれに対して民衆を巻き込んで声を上げることで、自らに不利な政策をも変え得ることを学んだ。1950年代は、このように資本家・民衆・政治家の3つの勢力を中心とした新しい民主主義が形成された時代であった*33。これこそが、G.D.が政治的影響力が衰えつつあるなかで成し遂げた最後の大仕事であった。

 

4.晩年(1960年代以降)

 1964年5月にネルーが死去すると、政権を継いだのは民間企業優遇路線を採るラール・バハドゥール・シャストリ(Lal Bahadur Shastri)であった。シャストリ政権下でインド経済は自由主義的市場を形成し始め、風向きは一時的に資本家階級の望む方向へと動き始めたが、首相就任からわずか2年と経たないうちにシャストリは心臓発作で急逝してしまう。

 後任を務めたのはネルーの娘インディラ・ガンディーであった。未完に終わっていたアメリカ・世界銀行からの経済援助をなんとしても実現したかったG.D.は、「ネルーの娘」というネームバリューが価値を持つと踏んでインディラを支持した。1966年3月、G.D.はインディラに先立って渡米し、経済援助獲得のための地盤を固めた。翌月に行われたインディラとアメリカの直接交渉は概ね良好に進んだが、アメリカ側は無償での経済援助はあり得ないとして、ルピーの平価切下げを求めた。加えて、インドが平価切下げを実行しても、アメリカは印パ関係の悪化を理由に経済援助を食糧供給のみにとどめた。インディラにとって、こうしたアメリカの行いは「裏切り」以外の何物でもなかった。インディラの疑念は1950年代からこの交渉を進めてきたG.D.にも向けられ、インディラ政権は巨大財閥を目の敵とした社会主義路線へと急遽舵を切り始める。結局、インディラも父ネルーと同様、産業の国営化を軸とした計画経済を展開していくこととなった。また、インディラはFICCIを「時代遅れの老齢」グループと称して厳しく批判する一方で、若年層の資本家とはつながりを持っており、こうした新たな政治環境は完全にG.D.の影響力を失墜させた。当然、その他のFICCI資本家らはインディラの社会主義路線に対して、1950年代のときと同じように抵抗したが、G.D.のカリスマなき状況では極めて挑戦的な試みであった。1920年代から約40年続いたG.D.の政治活動は、自らが支持したはずのインディラ・ガンディーの台頭によって幕を下ろすこととなったのである。

 しかしながら、G.D.は政界から完全に姿を消したわけではなかった。全インドのレベルでは確かにG.D.の影響力は衰退していたが、1967年の選挙では国民会議派でもインディラ政権でもない第三勢力として地元ピラニから候補者を立て、これを経済的に支援した。かつてマラヴィヤやラジパット・ラーイーを近くで見てきた経験を活かして、得意のメディア戦略を展開しながら、この候補者を見事当選させた。晩年のG.D.は、ビジネスで慣れ親しんだカルカッタでもなければ、政治活動の中心地であったデリーでもなく、故郷ピラニから政治に関わっていくことを決めたのであった。

 産業界においては、1969年から随所で引退を始める。経営に関わり続けた分野も一部あったが、以前のような積極的な干渉は避け、十分な経営者として成長した息子たちのサポートに徹した。後継者として特に期待をかけていたのは、孫のアディティヤ・クマール(Aditya Kumar Birla:以下、A.K.)であった。A.K.は米国マサチューセッツ工科大学を卒業した技術屋上がりであるが、海外展開を中心として未踏の領域へと参入する経営手腕も持ち合わせていた。財閥の活動が厳しく制限されたインディラ政権下では、外資の受入に積極的であった東南アジアに目をつけ、インド国内で業績の芳しくない事業を移転させるなど柔軟な経営力を発揮した。しかしながら、相続に関してはビルラ財閥の特異な体制のために困難を極めた。ほとんどの事業の経営権はすでに息子たちの手に渡っていたが、所有に関しては財閥内の各企業で株式持合の状況にあり、経営権の譲渡と所有権の譲渡が一体ではなかった。このような統治体制は、ビルラ・ブラザーズ社の管理のもと結束を固め、離反が起こらないようにするための戦略であった。事業を継いだ息子たちは、当然のごとく各々が財閥全体の支配権の獲得を狙っていたため、このような統治体制は混乱と分断を招いた。かくして相続をめぐる内部分裂の果てに、「ビルラ財閥」という屋号は現代失われてしまったのである。アディティヤ・ビルラ・グループが事実上の本家とされるのは、上記のG.D.とA.K.の関係を見れば自明であろう。

 G.D.は1983年、89歳のときにロンドンで没する。1969年に財界を引退してからの14年間は、A.K.の成長を見守りつつ、政治とも経済とも距離を置き、ヒンドゥー教聖地巡礼に勤しんだ*34。しかし、彼の政治的・経済的功績は、死後も確かにインドに影響を残し続けたという。インディラ・ガンディーの台頭によってインドの資本主義的発展は一時停滞したが、G.D.らの意志は1980年代以降、インディラの息子ラジヴ・ガンディー(Rajiv Gandhi)やナラシンハ・ラーオ(Narashimha Rao)の経済改革へと受け継がれていく。これら資本家階級の流れを汲む政権の経済改革によって、インドは市場経済を確立し、世界経済で台頭するための扉を開いた。後世に受け継がれた経済思想こそが、本書の掲げるG.D.ビルラ最大のレガシーである。

 

5.本書の評価

 多様な一次・二次史料を丹念に渉猟することでG.D.ビルラの一生を詳細に再現している本書は、言うまでもなく大作である。ここまで紹介してきた本書の概要からもわかる通り、G.D.やビルラ家の周辺人物にも着目していることから、先行する2作の評伝と比べてより立体的・写実的にG.D.ビルラの歩んだ時代が描き出される。まさにG.D.ビルラとともに歩むインド史といったところだろうか。

 G.D.ビルラ研究のさらなる発展のために、若干の問題点も指摘しておこう。まず、全体として政治的な議論が多く、「G.D.ビルラの政治史」という印象が強い。経済史的な議論は金融論・貿易論が中心で、産業史的な分析に割かれた紙幅は極めて少ない。例えば、第7章「一族の重要な10年」では、様々な傘下企業の名前が登場するが、家族関係を中心として議論が展開されており、割かれたページ数も9ページと本書のなかで二番目に少ない。第14章「ネルー政権下インドでのビジネス・チャンス」では1950年代ネルー政権下におけるさらなる多角化について論じられているが、こちらは8ページと最も少ない。いつ、どのような産業に参入したのかが網羅的に明らかにされていないのは、史料制約上の問題も考えられるが、今後精査する余地のある論点ではなかろうか。

 ビルラ財閥の産業史的分析は、我が国の先行研究が比較的優秀である。加藤は他財閥との比較の視座を取りながら、ビルラ財閥傘下企業を多く取り上げ、その経営や財政についてコンパクトにまとめている*35。統計表も充実しており、数量経済史的にも価値の高い研究と言える。伊藤は各財閥の出自に着目してインドの諸財閥をいくつかの類型に分類し、そのうちビルラ財閥を株式持合の構造から「錯綜型」に位置付けている*36。三上はビルラ家の社会経済史的背景に着目しながら多角化の過程を精査してきた。特に1930~40年代の多角化の議論は一覧性が高い*37。ただし、日本におけるビルラ財閥の研究も最近20年はほとんど進展がないのが現状である。21世紀に上梓された本書を新たな史料として、個々の産業についての情報をアップデートしていく必要があろう。

 その意味では、評者の個人的な関心となってはしまうが、G.D.ビルラと新聞産業の関係は掘り下げが必要な領域であると思われる。先に述べたように、G.D.が新聞産業へと参入した経緯は未だよくわかっていない。それにもかかわらず、1920年代にはすでに新聞王(Press Baron)と呼ばれており、1930年代以降、G.D.が独立運動プロパガンダとして新聞メディアを積極的に活用してきたことは本書のいたるところで散見される。特にヒンドゥスタン・タイムズに対する態度の変遷は興味深い。当初は買収そのものに乗り気でなかったこの新聞は、奇しくもマラヴィヤと疎遠になったタイミングで独立運動プロパガンダとして活用され始める。NMMLの所蔵史料検索によると、マラヴィヤのプライベート・ペーパー(Malaviya Papers)にはヒンドゥスタン・タイムズに言及した史料も存在することから、G.D.の周辺の人物にも着目して精査していくべき論点と考えられる*38。また、独立運動におけるメディア戦略という観点からは、ガンディーの影響が強いことも示唆されている*39

 G.D.の経済思想についても掘り下げの余地があるように思われる。例えば、計画経済を策定したボンベイ・プランは、社会主義を標榜しながらも帝国主義政策を採る「社会帝国主義」と類似する印象を受ける。G.D.自身は社会主義を標榜していたわけではないが、ボンベイ・プランの実態は社会主義的な計画経済と何ら変わりない。国家経営のトップに立つ者が社会主義者であるか資本家であるかという決定的な違いはあるものの、資本家と社会主義者という2つの属性は果たして互いに排反であるかという疑問も浮かぶ。哲学的・経済原論的な議論は本稿が目指すところではないため、現状では資本家による意図せざる社会帝国主義とでも仮定しておこうか。また、分離独立後の印パ間の産業の偏在についても、帝国主義経済秩序との類似性が認められることは先述した通りである。このように、意図せずして帝国主義的な様相を呈したかのように見える事例から、植民地対帝国主義という単純な二項対立の図式は見直す必要があるように思われる*40

 以上のように、本書から新たな論点をいくつか導出できた。G.D.ビルラ研究は近年停滞傾向にあるが、いまもなお不明な論点や発展的議論が可能な論点は存在しており、今後も継続して議論されていくべきであると考えられる。その際に、本書は不朽の必読書として君臨し続けるであろう。

 

参考文献

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Reporting the Raj: The British Press and India, C. 1880-1922 (Studies in Imperialism)

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  • 作者:Kaul, Chandrika
  • 発売日: 2004/01/17
  • メディア: ペーパーバック
 

・Mukherjee, Aditya., Imperialism, Nationalism, and the Making of the Indian Capitalist Class 1920-1947 (New Delhi, 2002).

・Nehru Memorial Museum & Library, NMML Manuscripts: An Introduction (New Delhi, 2003).

・Ramnath, Aparajith., The Birth of an Indian Profession: Engineers, Industry, and the State 1900-1947 (New Delhi, 2017).

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・Timberg, Thomas A., The Marwaris: From Traders to Industrialists (New Delhi, 1978).

Marwaris from Traders to Industrialists

Marwaris from Traders to Industrialists

  • 作者:Timberg, Thomas
  • 発売日: 1979/06/01
  • メディア: ハードカバー
 

・Timberg, Thomas A., The Marwaris: From Jagat Seth to the Birlas (Gurgaon, 2014).

The Marwaris: From Jagat Seth to the Birlas

The Marwaris: From Jagat Seth to the Birlas

 

・伊藤正二「インドにおける財閥の出自について(19世紀~第一次世界大戦)」『社会経済史学』第45巻第5号、1980年、29~54頁。

・伊藤正二編著『発展途上国の財閥』アジア経済研究所、1983年。

・伊藤正二「インドのある大企業の株主構成」佐藤宏編著『地域研究シリーズ第7巻 南アジア―経済』アジア経済研究所、1991年、106~119頁。

・井上巽『金融と帝国―イギリス帝国経済史—』名古屋大学出版会、1995年。

金融と帝国―イギリス帝国経済史

金融と帝国―イギリス帝国経済史

  • 作者:巽, 井上
  • 発売日: 1995/04/01
  • メディア: 単行本
 

・籠谷直人「戦前期日本人商社によるインド綿花の奥地買付活動—東洋棉花ボンベイ支店を事例にして—」『人文學報』第82号、1999年、1~18頁。

・籠谷直人「1930年代前半の日本綿製品の対イギリス領インド輸出をめぐる論点—第一次日印会商(1933年9月25日-34年1月5日)の再論—」『人文學報』第110号、2017年、183~214頁。

・加藤長雄『インドの財閥—ビルラ財閥を中心として—』アジア経済研究所、1962年。

・上村勝彦『バガヴァッド・ギーターの世界—ヒンドゥー教の救済』筑摩書房、2007年。

・木谷名都子「インド綿花輸出問題から観た英印民間会商と第一日印会商―1930年代前半の対英特恵関税問題再考―」『社会経済史学』第71巻第6号、2006年、25~47頁。

小松久恵「アメリカ人が描いた20世紀初頭インドの輪郭:『マザー・インディア』を読む」『コンタクト・ゾーン』第4号、2011年、85~96頁。

小松久恵「「質実剛健」あるいは「享楽豪奢」——1920-30年代北インドにおけるナショナリズムとマールワーリー・イメージをめぐる一考察」『現代インド研究』第3号、2013年、131~151頁。

・須貝信一『インド財閥のすべて—躍進するインド経済—』平凡社、2011年。

インド財閥のすべて (平凡社新書)

インド財閥のすべて (平凡社新書)

  • 作者:須貝信一
  • 発売日: 2011/09/15
  • メディア: 新書
 

・谷山英祐「1920年代インド綿花市場における制度変化と企業行動—東洋棉花の奥地直買活動を事例として—」『起業家研究』第6号、2009年、18~35頁。

・本田毅彦『インド植民地官僚—大英帝国の超エリートたち』講談社、2001年。

・三上敦史「インド財閥の所有と経営—その類型的把握—」『経営史学』第22巻第3号、1987年、1~28頁。

・三上敦史『インド財閥経営史研究』同文舘、1993年。

インド財閥経営史研究

インド財閥経営史研究

 

未刊行史料

・Imperial Economic Conference at Ottawa 1932. Summary of Proceedings and Copies of Trade Agreements, British Parliamentary Papers (1931-32), XI [Cmd. 4174].

・The National Archives, Kew, DEFE5/195/4, 10 January 1973.

 

注釈

*1:須貝信一『インド財閥のすべて—躍進するインド経済—』平凡社、2011年、122頁。

*2:Jaju, Ram Niwas., G.D. Birla: A Biography (Uttar Pradesh, 1986).

*3:Ross, Alan., The Emissary: G.D. Birla, Gandhi and Independence (London, 1986).

*4:序章によると、ビルラ家へのインタビューや一部手紙などを用いて執筆したという。G.D.ビルラ・ペーパーが体系的に整備される前の出版だったのかもしれない。Jaju, G.D. Birla, Prefaceを参照。

*5:本書の著者が利用したG.D.ビルラ・ペーパーの詳細については、Kudaisya, Medha M., The Life and Times of G.D. Birla (New Delhi, Paperback Edition, 2006), pp.xi-xii. NMML所蔵のG.D.ビルラ・ペーパーのコピーについては、Nehru Memorial Museum & Library, NMML Manuscripts: An Introduction (New Delhi, 2003), pp.161-162を参照。

*6:須貝『インド財閥のすべて』、128頁。しかしながら、後述するように、工業へと参入し事業の多角化を行ったのは本書の主人公であるG.D.ビルラである。それまでビルラ一族は専らブローカーとして活動しており、財閥特有の多角的な工業参入は見られなかった。したがって、財閥体制を築き上げたのはG.D.ビルラであり、彼こそがビルラ財閥の創始者といえるであろう。なお、財閥の詳細な定義に関しては本稿の目指すところではない

*7:ビルラ財閥の経営体制とその変遷は、以下の研究が詳しい。三上敦史「インド財閥の所有と経営—その類型的把握—」『経営史学』第22巻第3号、1987年、19~21頁。

*8:マルワーリーは現代の感覚からは異常なほど早婚の慣習があった。事実、G.D.の父バルデオダスは12歳、兄ジュガールキショールは11歳、同じく兄ラメシュワルダスは10歳で結婚している。ただし、当時から「後進的」と揶揄されていた結婚に関する慣習は、年配男性と幼女の組み合わせによる「幼児婚」であり、実際には女性に早婚の慣習があっただけで、ビルラ一族の男性の結婚が偶然早かったという可能性もある。「幼児婚」の慣習とそれに対する当時の批判については、小松久恵「「質実剛健」あるいは「享楽豪奢」——1920-30年代北インドにおけるナショナリズムとマールワーリー・イメージをめぐる一考察」『現代インド研究』第3号、2013年、137頁を参照。

*9:実際には当時三井財閥の傘下にあった東洋棉花である。東洋棉花は19世紀末にはすでにボンベイを中心にインド棉花の奥地買付を行っていた。1910~20年代ボンベイ印棉市場への日本企業の参入に関する研究はいくつか見られるが、カルカッタでの活動はあまり注目されておらず、ビルラ財閥との関連で今後明らかにすべき課題であろう。事実、ロイによると、当時の日本のインド参入によって、ボンベイのみならずカルカッタでも西洋綿業者のプレゼンスは著しく低下したといわれており、カルカッタの重要性も伺える。Roy, Tirthankar., ‘Trading Firms in Colonial India’, Business History Review, 88 (2014), pp.20-21. なお、ボンベイ印棉市場の研究については、以下が詳しい。籠谷直人「戦前期日本人商社によるインド綿花の奥地買付活動—東洋棉花ボンベイ支店を事例にして—」『人文學報』第82号、1999年、1~18頁。谷山英祐「1920年代インド綿花市場における制度変化と企業行動—東洋棉花の奥地直買活動を事例として—」『起業家研究』第6号、2009年、18~35頁。

*10:決定的な理由はG.D.宅で銃と弾薬の入ったコンテナが見つかったためである。しかし、1905年のベンガル分割やスワデーシ運動でテロ活動が盛んになっていた当時、護身用に武器を所持することはどの家庭でもあり得たため、実際にG.D.がロッダ事件に関与していたかどうかは疑わしい。ただし、当時G.D.も急進的なナショナリスト思想に傾倒していたことはバラ・バザール中に知れ渡っており、いつ捕まってもおかしくない状況にあったともいわれている。

*11:当時の、商業・工業向けに貸付を行う銀行のほとんどがイギリス人によって経営されており、貸付に際しては人種差別が横行していた。西洋資本企業への貸付は嬉々として受け入れ、インド人からの申請には門前払いか法外な利子率を吹っ掛けるということが当たり前であった。

*12:「インド化」(Indianization)とは、端的に述べると、組織内におけるインド人の割合を増加させることである。イギリス統治下のインドでは、イギリス資本による企業ではもちろんのこと、インド資本の企業であっても技術職・管理職の双方でイギリス人の能力に依存せざるを得ず、インド人の人材不足が深刻であった。イギリス帝国の支配から脱却し、インドという一国家として経済的な自立を図ることは、インド人自らの手で国内の企業を運営していくことに他ならなかった。そのために、当初は経験豊富な西洋人を雇用することで先進国の技術を自社に移転させ、技術教育を経て徐々に西洋人をインド人に置き換えるという戦略が採られた。同時代にはタタ財閥の代表的な企業であるタタ製鉄も「インド化」を試みていたことがわかっている。詳しくはRamnath, Aparajith., The Birth of an Indian Profession: Engineers, Industry, and the State 1900-1947 (New Delhi, 2017)を参照。また、「インド化」という現象は産業界に限ったことではなく、インド高等文官などの官職においても見られた。本田毅彦『インド植民地官僚—大英帝国の超エリートたち』講談社、2001年、118~121頁。ここでのビルラ・ジュートの特色は、こうしたインド化の試みが従業員から自発的に想起されたことであろう。

*13:パルタ・システムは2003年にG.D.の孫であるアディティヤ・クマールによって廃止されたが、これは生産数のみにフォーカスしたパルタ・システムでは、国際経済における熾烈な競争に打ち勝てないためであった。代わりに導入された財務制度は、収益性・資本の生産力・成長性といった多角的な要素を重視したものであったという。Timberg, Thomas A., The Marwaris: From Jagat Seth to the Birlas (Gurgaon, 2014), pp.104-106.

*14:ビルラ一族の「商人から産業資本家への転身」という概念は様々な先行研究でも言及されているが、もとはTimberg, Thomas A., The Marwaris: From Traders to Industrialists (New Delhi, 1978)に負うところが大きい。前掲書とは微妙にタイトルが異なることに注意。

*15:1920年代のインド全土の識字率は10%以下で、新聞の主な読者層は、高級紙では政治家、研究者、作家、大衆紙では中産階級(商人、資本家)であったことから、新聞を通じたプロパガンダの対象は上記を含む知識人であったことが推測される。なお、新聞の使用言語は英語が大多数で、G.D.の所有していた新聞・雑誌もすべて英字での発行であった。Jeffrey, Robin., ‘Mission, Money and Machinery: Indian Newspapers in the Twentieth Century’, Institute of South Asian Studies (National University of Singapore) Working Paper, No.117 (2010), pp.7-8, 14-15. Kaul, Chandrika., Reporting the Raj: The British Press and India, c.1880-1922 (Manchester, 2003), pp.57-59.

*16:G.D.の影響力の低下はガンディーの台頭のみが要因ではない。産業資本家として成長したことにより、商人層との不和が生じたことも彼の人気を下げる要因となった。例えば、貿易政策に関する議論では、G.D.は産業資本家としての立場から保護貿易を支持していたが、マルワーリー商人は自由貿易論者がほとんどであった。

*17:G.D.の兄ラメシュワルダスがコルワー(Kolwar)階級の女性と結婚することになった際に起きた論争。コルワーとは商人カーストのなかで差別的扱いを受けていた指定カースト(アウト・カースト、不可触民とも)の一種で、結婚はおろか、ともに食事をすることすら禁じられていた。G.D.はジュート工業参入にあたって人種差別を経験していたこともあり、こうした前時代的慣習には否定的であったが、保守派商人層は伝統の遵守を求めてラメシュワルダスの婚姻を痛烈に非難した。

*18:インド北部で独立運動に活用できそうな英字新聞を欲していたマラヴィヤは、ヒンドゥスタン・タイムズが財政難に直面していることを耳にし、嬉々として買収に乗り出した。その際に資金の拠出をG.D.に依頼したが、採算が合わないとしてG.D.は乗り気ではなかった。結局、マラヴィヤの強い希望でさらなる投資を行った結果、ヒンドゥスタン・タイムズはビルラ財閥の下で刊行が再開される。再刊当初もG.D.はこの新聞にあまり意義を見出せず、取締役への就任は辞退していたが、1年後に急遽態度を改めて取締役に就任、独立運動プロパガンダに積極的に活用していくこととなる。こうしたG.D.の心境の変化は未だ明らかにされていない。

*19:主にインドの後進性を指摘し、イギリス植民地支配を正当化するような内容であった。小松久恵「アメリカ人が描いた20世紀初頭インドの輪郭:『マザー・インディア』を読む」『コンタクト・ゾーン』第4号、2011年、85~96頁。

*20:1927年の欧州遠征でG.D.が目撃したのは、朝まで公共の場で酒と煙草を呑み、踊り狂う西洋人女性であった。これを目の当たりにしてG.D.は、欧州を「破滅へと向かう快楽主義的で放埓的な社会」と酷評している。

*21:そもそもロッダ事件で大きな失敗を経験しているG.D.にとって、国民会議派急進派との交流はラジパット・ラーイーの存在ありきといっても過言ではなかった。マラヴィヤとの関係はお互いの政治的・経済的利害が一致していただけに過ぎず、宗教的思想の点では対立することも多々あったという。

*22:それまで、インドの通貨は国内の銀価格を基準に評価されており、スターリングと兌換する際には銀価格を金価格で評価した上で、改めてルピー価値を計算するという金為替本位制を採っていた。金本位制廃止までのルピー=スターリング為替の変遷とその論争については、Mukherjee, Aditya., Imperialism, Nationalism, and the Making of the Indian Capitalist Class 1920-1947 (New Delhi, 2002), pp.75-101が詳しい。なお、このムカジーの研究はNMML所蔵のタクルダス・ペーパーを用いて為替論争を論じている一方で、本書はG.D.の活躍を描いている点で、相互補完的であると言える。

*23:Ibid., p.107. なお、イギリスがスターリング圏の紐帯の強化を欲したのは、植民地を通じてイギリス本国の貿易赤字を補填する多角的貿易決済システムが世界恐慌によって機能不全に陥ったためであった。後述する帝国特恵関税の施策とともに、スターリング圏の形成は多角的貿易決済システムの崩壊したイギリスにとって、起死回生の一手であった。井上巽『金融と帝国—イギリス帝国経済史—』名古屋大学出版会、1995年、16頁。

*24:詳しくは後述するが、独立期にインドの資本家階級が民衆(農業労働者など)の利益を重視して意思決定を行っていたことは、本書のみならずムカジーの研究でも指摘されている。Mukherjee, Imperialism, Chapter 11を参照。

*25:Imperial Economic Conference at Ottawa 1932. Summary of Proceedings and Copies of Trade Agreements, British Parliamentary Papers (1931-32), XI [Cmd. 4174], p.78.

*26:同年にイギリスが勝手に日印通商協定を破棄し、日本側から印棉不買運動が起こったことも背景にある。1930年代のインド、イギリス、日本の3ヵ国による綿貿易の議論は以下を参照。木谷名都子「インド綿花輸出問題から観た英印民間会商と第一日印会商―1930年代前半の対英特恵関税問題再考―」『社会経済史学』第71巻第6号、2006年、25~47頁。

*27:インド政府と手を組む場合、モディー=リース協定は結ばれるが、FICCIはボイコットを展開してランカシャー綿布のインド市場への参入を今後一切許さなかった。一方でモディー=リース協定を諦め、インド人の政治家と手を組めば、従来のように特恵なしでのインド市場への参入が約束された。

*28:1934年に新日印協定が結ばれ、日本との関係が改善されたことも背景にある。ランカシャーが頼みの綱としていたインド政府も、財源確保のためにランカシャーよりも日本を得意先として選んだのであった。木谷「インド綿花輸出問題」、43~47頁。同時代の日印関係の改善を計量的に分析したより詳しい議論として、籠谷直人「1930年代前半の日本綿製品の対イギリス領インド輸出をめぐる論点—第一次日印会商(1933年9月25日-34年1月5日)の再論—」『人文學報』第110号、2017年、183~214頁も参照されたい。

*29:Chandra, Bipan., ‘Jawaharlal Nehru and the Capitalist Class, 1936’, Economic Political Weekly, 10: 33-35 (1975), pp.1307- 1324.

*30:インドは独立後、1950年代にはアメリカから、1960年代に入るとソ連から経済援助を獲得していく。インドとの対立を引きずっていたパキスタンは、これらの超大国と親密な関係を築くことができず、中国との関係強化に努めていった。ところが、1971年の第三次印パ戦争時に中国からの支援はなく、これはパキスタンを幻滅させた。国際的に孤立を極めるパキスタンは、ムスリム国家に縋りつくしかなく、1972年にはコモンウェルスを脱退し、イギリスとの関係を完全に断つこととなった。The National Archives, Kew, DEFE5/195/4, 10 January 1973, p.A-2.

*31:『バガヴァッド・ギーター』はヴィシュヌ派の聖典マハーバーラタ』の一節で、それ単体でも聖典として数えられる極めて影響力のある教典である。そこでは、数奇な運命故に血のつながった兄弟たちと争わなければいけないことに悩むアルジュナと、それを諭し戦いへと向かうよう鼓舞するクリシュナの問答が描かれている。クリシュナの教えは、真に結果への執着を捨て、自分のなすべきこと(社会的義務)に専念することによって、戦って敵を殺しても罪にならないというものであった。クリシュナとの問答を経て、アルジュナは自らのなすべきことをなし、悟りを得るために戦地へと向かう覚悟を決める。ガンディーの非協力運動に対する「より良い社会の実現のために誰かが他者を排除することは、暴力的行為となるであろうか?」(より良い社会の実現のために暴力行為は止む無し)というG.D.の批判や、G.D.がガンディーのカルマ・ヨーガ(一意専心)的な態度を気に入っていたことからも、2人が『バガヴァッド・ギーター』の影響を色濃く受けていたことは明らかであろう。Kudaisya, The Life and Times, pp.90, 273. 『バガヴァッド・ギーター』の概要については、上村勝彦『バガヴァッド・ギーターの世界—ヒンドゥー教の救済』筑摩書房、2007年を参照。

*32:2人はネルー共産主義国へと接近する外交には懐疑的な態度を示し、資本主義国家を中心に友好国を作りたがっていた。特にこの時期のG.D.が目指していたのは、アメリカと世界銀行から経済援助を引き出すことであった。

*33:資本家・民衆・政治家の3つの勢力による民主主義のダイナミクスは、前掲のムカジーの研究でも描かれている。ただし、ムカジーの扱った時代は1940年代である。この時代のインド人資本家階級は政治家を民衆=世論に最も近しい存在であると考え、政治家に資本家を贔屓するようロビー活動を仕掛けることで、民衆からも支持を得ることが可能となった。また、資本家階級は独立期の民衆運動に対して寛容な態度を取ることで民衆を味方につけ、目先の利益にとらわれず長期的に自階級の利益を結実させていった。Mukherjee, Imperilaism, pp.403, 428-429. このムカジーの研究も鑑みると、本書の指摘する資本家・民衆・政治家による新しい民主主義の萌芽は1940年代に求めることができそうである。

*34:1970年代に自らをクルクシェートラ聖戦後のアルジュナに重ねて余生を過ごす発言をしていることからも、『バガヴァッド・ギーター』の信奉は晩年も変わらず続いていたことが伺える。

*35:加藤長雄『インドの財閥—ビルラ財閥を中心として—』アジア経済研究所、1962年、87~97頁。

*36:伊藤正二「インドにおける財閥の出自について(19世紀~第一次世界大戦)」『社会経済史学』第45巻第5号、1980年、29~54頁。伊藤正二編著『発展途上国の財閥』アジア経済研究所、1983年、139~179頁。伊藤正二「インドのある大企業の株主構成」佐藤宏編著『地域研究シリーズ第7巻 南アジア―経済』アジア経済研究所、1991年、106~119頁は、特にヒンドゥスタン・モーターズの株式に着目してビルラ財閥の統治構造を分析している。

*37:三上敦史『インド財閥経営史研究』同文舘、1993年、197~228頁。

*38:マラヴィヤ・ペーパーはデジタル化されていないため、内容については未確認。

*39:これに関連して、Kaul, Chandrika., M.K. Gandhi, Media, Politics and Society: New Perspectives が2021年に出版予定である。ヒンドゥスタン・タイムズについてもガンディーが大いに関わっていたことは、ヒンドゥスタン・タイムズのホームページからも伺える(https://www.htmedia.in/about-us)。

*40:近年、ブリティッシュ・ワールドという概念からこの図式は再考が進められているが、ブリティッシュ・ワールド論ではイギリスが植民地に対してブリティッシュネス(イギリスらしさ)を創出してきたと考えられているのに対し、ここで問題視すべきは植民地側が宗主国に対立を示しながらも、帝国主義的な経済秩序を実現してしまうことである。植民地のハード・パワーにも注目した視座が求められる。