でんどろのはてなブログ

Twitter @dEndro_biuM 歴史学(主にイギリス帝国史、インド史)に関する書評や一般書の感想など。更新頻度は稀。管理人の読書スピードが遅いから。しばらくは試験運用。

【書評】日本における「新しい帝国史」の成果——荒木和華子、福本圭介編著『帝国のヴェール—人種・ジェンダー・ポストコロニアリズムから解く世界—』明石書店、2021年、378頁

【書評】日本における「新しい帝国史」の成果——荒木和華子、福本圭介編著『帝国のヴェール—人種・ジェンダー・ポストコロニアリズムから解く世界—』明石書店2021年、378

 帝国、および帝国主義は現代の世界において消滅したか。2022年2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻を鑑みれば、この問いは愚問と言わざるを得ない。第二次世界大戦終結した1945年以降、国際社会では武力によらない世界秩序の構築が模索されてきた。しかしながら、1955年にはアメリカによるヴェトナム戦争が勃発、その終戦から28年後の2003年、アメリカはイラクへと侵攻を開始。ロシアについても1979~89年にアフガニスタン戦争を引き起こし、その33年後、すなわち2022年現在、その武力の矛先を今度はウクライナへと向けた。言うまでもなく、二度の世界大戦を経て構築されてきた21世紀の国際秩序では、帝国主義を彷彿とさせるこうした侵略行為は許容されるべきものではない。インド現代史家のRamachandra Guhaもこれらの事件をアメリカ、ロシアの「健忘症」(amnesia)によるものと痛烈に批判している*1

 しかしながら、帝国主義は何も武力によってのみ顕現するわけではない。いわゆる南北問題と呼ばれる先進国と途上国間の経済格差、人種差別、ジェンダー差別などは帝国権力により生み出された搾取・収奪の結果であり、我々の日常生活には見えづらい形で行使される帝国権力も存在する。すなわち、帝国権力は見えない「障壁」(veil)によって覆い隠され、いまもなお残存し続けているのである。

 本書のタイトル『帝国のヴェール』は、そうした「帝国権力を覆い隠すもの」を暴き出すという大義のもとに名付けられていると言えよう。ことアメリカに関しては、新型コロナウイルス感染症パンデミックにより人種的マイノリティを襲う格差が可視化された。また、ジョージ・フロイド氏の死をきっかけにBlack Lives Matter (BLM)運動が世界へと波及し、帝国主義の歴史への問い直しが再燃したことによって、それまで覆い隠されていた現代における帝国権力が我々の前に顔をのぞかせた。その意味で、本書は機を逃さず、絶好のタイミングで上梓された。こうした背景を念頭に置きながら、以下では本書の概要を簡潔に整理・紹介し、「帝国」研究における本書の位置づけを提示してみたい。

 

1.本書の概要

 本書の構成は以下の通り。括弧内は著者を示す。

序文:人種資本主義(レイシャル・キャピタリズム)序説——BLM運動が投げかけた世界史的問い (貴堂嘉之)

第Ⅰ部 帝国としてのアメリカにおける人種とジェンダーの交錯

第1章:帝国建設において人種とジェンダーはどのように関係しているか——アメリカ帝国主義についての省察 (ルイーズ・M・ニューマン、荒木和華子訳)

コラム1:「真の女性らしさ」イデオロギーとアボリショニストによる解放民援助運動 (荒木和華子)

第2章:19世紀アメリカにおけるフリー・ラヴ思想——ロマンティック・ラヴの理想と結婚制度 (箕輪理美)

第3章:黒人女性が経験した人種差別の考査性——ファニー・ルウ・ヘイマーのスピーチを通して (西﨑緑)

第4章:ポストコロニアルからポストヒューマンへ——人種、ジェンダー、種の交差 (丸山雄生)

コラム2:イヌとヒトの不穏な関係から考える人種と植民地主義 (丸山雄生)

第Ⅱ部 ポストコロニアリズムの時代におけるジェンダーセクシュアリティをめぐる運動と批評

第5章:クィア理論入門——鍵概念の定義 (ニシャン・シャハニ、土屋匠平・荒木和華子訳)

コラム3:ままならない身体、ままならない情動——ジュディス・バトラーの「パフォーマティヴィティ」と「プレカリティ」 (五十嵐舞)

第6章:都市での安全——インドにおけるゲイ向け観光と世界化のポリティクス (ニシャン・シャハニ、箕輪理美訳)

第7章:FGM廃絶をめぐる歴史プロセスと新たなアプローチの可能性——『母たちの村』とナイース・レンゲテによる「男制」への着目 (荒木和華子・土屋匠平)

第Ⅲ部 東アジアにおける帝国とポストコロニアリズム

第8章:東アジアにおける「帝国」の構造とサバルタン・ステイト——韓国と台湾を中心に(陳柏宇)

コラム4:ポストコロニアル研究の可能性——歴史学からの解説 (渡辺賢一郎)

第9章:朝鮮人新聞の歴史からたどる日本と朝鮮の「結びつき」——19世紀後半から20世紀中葉に至るコロニアルな関係、その内実と展開 (小林聡明)

第10章:法と人権——「治安維持法」から「国家保安法」へ (権寧俊)

第11章:「裏日本」脱却のビジョン——自立共生を目指す新潟の動きをもとに(小谷一明)

コラム5:脱「裏日本」の夢を「環日本海」に見た (櫛谷圭司)

第12章:基地引き取り運動とは何か?——無意識の植民地主義からの脱却を目指す草の根の応答 (福本圭介)

コラム6:私たちが「困難な歴史」とともに生きていくために (川尻剛士)

 

 上記のように、全3部構成、12章と6編のコラムからなり、後述のように序文のみ本書全体のキー概念を提示する論考として独立している。まず、第Ⅰ部は多民族国家アメリカで観測され得る帝国権力の形を、人種とジェンダーの視点から明らかにし、批判的な評価を下している。続く第Ⅱ部では、ポストコロニアリズム論にジェンダー的観点を導入することで、帝国の周縁に位置付けられる国々で見られる帝国的暴力を扱っている。第Ⅰ部と対をなす視点からの研究と言えよう。第Ⅲ部は主に我が国の帝国主義的過去に着目し、その負の遺産が現在の国際関係や内政に影響を及ぼし続けていることを示唆する。序文およびコラムも含めると、本書の論考は19編にも登り、理論を扱った本質的なものから事例研究まで様々な論考が見られ、個々の専門分野の議論がユニークに展開されている。それでいて、各部で人種・ジェンダー・ポストコロニアリズムの3つの軸が鮮やかに交錯しており、「帝国権力を覆い隠すものは何か」という全編を貫くテーマに対するディレクションも申し分ないと考えられた。

 さて、各論考の内容紹介に移ろう。理論研究に関しては、まず序文では「人種資本主義」(racial capitalism)という概念が本書の議論の核として紹介されている。帝国と資本主義の密接な関係は、帝国主義を「資本主義の最高の発展段階」と評したレーニン帝国主義*2や、ケイン=ホプキンズによるジェントルマン資本主義論*3からも明らかであろうが、本書の序文が提示するのは人種主義が資本主義の本質を担ってきたという事実である。資本主義的発展において、特定の人種に対する暴力は常に不可分の要素として存在してきたが、従来の帝国史研究はこれを見逃してきた。この意味で、「人種資本主義」という新しいパラダイムをもとに「帝国」という概念を見直す必要性が示唆されている。

 また、第4章はポストコロニアリズム論に動物倫理的な観点を導入し、交差性という概念を用いることで、人種、ジェンダー帝国主義の相互関係を本質的に捉えようとする意欲的な論考である。クィア理論を紹介する第5章も、第2部全体を理解する上で欠かせない理論研究であろう。昨今、LGBT論の文脈で注目されつつあるクィア理論の意義・定義を根本から説明する本稿は、イデオロギーを「虚偽意識」、ヘゲモニーイデオロギーに対する「自発的合意」を促す権力として定義し、現代世界が西洋的規範に基づく偏見にまみれていることを指摘する。その上で、クィア理論を西洋的規範からの脱却を図る上でのカウンターとして機能し得ることを提唱している。続く同著者による第6章は事例研究となるが、インドのLGBT観光産業に対してクィア理論を実践的に用いた論考となっており、教育的価値も高い構成となっている。

 事例研究の多く(第1~3、6、7、9章)に共通するのは、宗教(第1章)、結婚制度(第2章)、文学(第3章)、性(第6、7章)、新聞(第9章)などの文化的側面に帝国権力を見出そうとする点である。これらは後述するように「新しい帝国史」という方法が用いられていると考えられる。また、従来の帝国史研究でも用いられてきた政治史(第8章)、法制史(第10章)といった方法を用いた論考も存在するが、いずれも現代韓国の内政状況に関して、大日本帝国からの連続性を強調している。帝国本国内にも抑圧される周縁の存在を見出す研究は3編(第1、11、12章)存在しており、中心=周縁関係を帝国=植民地関係と同一視する見方からの脱却を促す。このように、全体として従来の帝国史・帝国論研究の限界を乗り越える試みがどの論考においても見られ、個々の執筆者の斬新な問題意識と編著者・編集者の力量の高さが窺えた。

 

2.本書の評価

 評者が本書を評価する上で最も強調したいのは、本書が日本における「新しい帝国史」の成果たり得るということである。「新しい帝国史」とは、従来の帝国史研究のパラダイムでは捉えきれなかったトピックや領域を扱うことで、帝国の実態をより多角的な側面から明らかにしようとする方法論である。従来の帝国史研究は、J.A.ホブソンや先に述べたレーニンの古典的な帝国主義論に始まり、帝国本国と植民地における政治的駆け引きに着目した自由貿易帝国主義論、帝国の膨張の原因を金融投機家に求めたジェントルマン資本主義論など、様々なパラダイムが提示されてきたが、そのどれもが本国および植民地のエリート層や男性を主人公としてきた。「新しい帝国史」が着目するのはそうしたエリート層や男性による政治、経済ではなく、人種的マイノリティや女性、そして帝国・植民地双方の文化の側面である。本書のサブタイトルにもあるポストコロニアリズムは、「新しい帝国史」の先駆け的な方法として位置づけられる。

 「新しい帝国史」は、『監獄の誕生』でおなじみのミシェル・フーコーや『オリエンタリズム』のエドワード・サイードを起源とし、帝国の文化史を扱っていたジョン・マッケンジーによって従来の帝国史研究と架橋され、発展してきた。マッケンジーは従来の帝国史研究が常にエリート層や男性を主人公としてきたことを指摘し、そうした属性以外の人々が有した意図(minds)を探るために、新聞、大衆文学、切手・はがきなどの収集品、劇場、プログラム、写真、放送、映画、テレビなどの新たなメディアを史料として帝国史を描いてきた*4。「新しい帝国史」はこうした文化の側面を何よりも重視しつつ、「目に見えない形」で現れるものにも注意を払う。例えば、文学作品、民族学、人類学といった知の形態にも帝国のプレゼンスが存在するという*5。植民地の地図作成、そこの人々の歴史叙述といった西洋人による植民地に関する情報収集をすべて帝国権力の行使とみなし、「現実」よりも「言説」を重視する傾向にあるのが「新しい帝国史」である*6

 「新しい帝国史」の論者は、言説に制度的な慣習や権力の技術が含まれていると考える。例えば、西洋人による植民地主義を理解する際、植民地主義に関わる言説の背景には西洋に特有の制度や慣習、権力構造が存在するはずである。「新しい帝国史」論者は、これら言説の背景に存在するものを「文化」と定義した。言説分析を用いて、植民地主義を文化として理解しようと試みたのである。また、その際に彼らが影響を受けたのは、フランツ・ファノンやサイードのポストコロニアリズムに加え、フェミニズムサバルタン研究、人種などであった。その結果、「新しい帝国史」は著しく学際性に富む様相を呈してきている*7

 本書は厳密には帝国史のみにフォーカスした研究ではなく、むしろより広範な分野をも内包した学際的研究に位置づけられるであろう。しかしながら、方法論としては「新しい帝国史」と近似する見方や手法が散見される。すでに触れた通り、第1章はその最たる例であろう。アメリカの帝国拡張について論じた第1章は、本書のサブタイトルにもある人種・ジェンダーの問題から出発して、宗教、絵画、表象、音楽、教育、物語といった様々な文化的側面がアメリカ帝国主義政策に関わっていたことを明らかにした論考であった。海を越えて支配領域を伸長した西洋帝国とはやや異なり、アメリカは大陸西部を開拓することによってその領土を拡大してきたが、その試みは西部の原住民の生活を脅かすことと同義であった。西洋帝国が海外植民地に対して行使してきた暴力を、アメリカは北米大陸内でも行使してきたのである。現在でもアメリカ国内において人種やジェンダーに関する帝国主義的な暴力が顕著に観測され、国際的に話題となるのは、これが大きな要因であろう。このように、第1章はそれまで一国史的に考えられてきたものを、グローバルな帝国史の文脈に昇華させたという点で新たな視点を提供している。

 「新しい帝国史」とアメリカ帝国論について、もう少し深く掘り下げてみよう。ジェントルマン資本主義論で一世を風靡したA.G.ホプキンズは、イギリスとアメリカの「帝国」としての比較可能性に着目し、980頁にも及ぶ大著『アメリカ帝国―グローバル・ヒストリー—』(原題:American Empire: A Global History)*8を著した。ホプキンズによれば、従来の帝国史研究の枠組みにアメリカを位置付ける場合、アメリカが「帝国」として存在し得たのは1898~1959年の期間であったという*9。イギリスをはじめとした西洋帝国が海を越えてアフリカ、アジアといった地域を侵略・分割していったのに対し、アメリカは1898年の米西戦争以降、キューバやフィリピン、プエルトリコといった島嶼部を植民地化することで帝国主義世界体制を担う一員として台頭してきた。ジェントルマン資本主義論では帝国膨張の要因をイギリス本国の金融街(ロンドン・シティ)とそこにおける投資家の投機活動に求めたため、帝国史から周縁の視点が捨象されているという批判は絶えなかったが、『アメリカ帝国』では周縁である島嶼部に目を向けることで、ホプキンズはこれらの批判を克服している。加えて、従来のアメリカ史研究では、19世紀末から20世紀半ばまでのアメリカが島嶼部を植民地化していたという事実からは目を背けられてきたと指摘し*10、この期間のアメリカの対外政策を「帝国主義」と定義することで、西洋帝国を相対化することを試みている。

 しかしながら、ホプキンズのアメリカ帝国論は「新しい帝国史」の観点をカバーしきれているとは言い難い。ホプキンズはアメリカの帝国形成において白人至上主義や軍事力の根幹にある男性性の発露の重要性を認めつつも、人種やジェンダーといった文化的な要素はあくまでも経済、政治、社会といった従来の歴史研究の枠組みと合わせて総合的に検討されるべきとして、詳細な分析を避けているきらいがある*11。イギリスとの比較を念頭に置いて、帝国主義を海外膨脹と同一視する狭義の「帝国」概念をアメリカに適用した結果、19世紀に見られた西部進出や、現在も国内外で色濃く残る人種・ジェンダー差別に関する帝国的暴力を説明することができていない。一方、本書『帝国のヴェール』は、帝国=植民地間の支配=被支配関係のみならず、帝国本国内で見られる帝国的暴力をも扱っている。第2章の白人女性によるフリー・ラヴ思想や第11章の「裏日本」概念は、ホプキンズの定義するような従来の(狭義の)帝国概念では観測できない帝国権力の形であろう。

 こうした従来のパラダイムでは捉えきれない暴力を観測することが可能となったのは、本書が「帝国」というものを厳密に定義しなかったからに他ならない。本書は序文において「人種資本主義」が資本主義の本質であり、帝国主義を分析する上で欠かせない要素であることを指摘しているが、「帝国」や「帝国主義」を具体的に定義することはどこにもなされていない。各論考において「帝国」の定義は各々の執筆者にゆだねられており、広義の「帝国」概念を念頭に置いて執筆・編集がなされていると言えよう。それによって、中心(帝国)としてはアメリカ(第1~3章)、日本(第8~12章)、周縁(植民地)としては帝国内の諸地方、アフリカ諸国(第7章)、インド(第6章)、韓国(第8、10章)、朝鮮(第9章)など多様な地域を扱うことを可能としており、なおかつポストヒューマニズム(第4章)やクィア理論(第5章)、「裏日本」(第11章)など、新しい思想的枠組みを帝国論に導入することにも成功している。しかしながら、こうした広義の帝国概念を前提とした研究には、帝国史家から懐疑的な目も向けられている。

 例えば、イギリス帝国史研究に長く従事してきた木畑は、現代世界におけるアメリカを「帝国」とする見方には懐疑的である。木畑は帝国および帝国主義という概念を、「世界史を論じる上できわめて重要な概念」と考えており、「その使い方については慎重であるべき」とする。その上で木畑は現代の帝国論を、中心=周縁関係の欠如、支配領域の境界の有無、国民国家と周縁の相違といった観点から否定する。現代世界における帝国論を著したアントニオ・ネグリマイケル・ハートは、「いかなる国家も帝国主義的プロジェクトの中心となりえない」として、権力の配置をグローバルに捉えているが、木畑は中心なき帝国という考え方はあり得ないと一蹴する。また、支配領域についても、現代世界の帝国は空間全体を覆うグローバルな体制として考えられているが、イギリス帝国ですら世界の4分の1程度の領域しか支配し得なかったことを根拠に、木畑は帝国を語る上で領域的境界の必要性を提唱する。極めつけは、現代の国民国家がかつて帝国の保持した周縁とは異なる存在であるという点である。帝国主義世界体制の解体と脱植民地化によって、世界は多数の国民国家からなる体制に移行した。これを木畑は「世界史のなかでの異なる段階」と評価し、帝国支配における周縁の消失を主張している。仮に現代世界の国民国家アメリカによる「非公式帝国」として捉えようとしても、アメリカは周縁の内政にまで及ぶ支配力を持っていないという点で無理があるという*12

 すなわち、木畑によると帝国という概念は、明確な中心=周縁関係から成り立ち、支配領域が規定されたものであるが、現代のアメリカを帝国と捉える見方には中心もなければ周縁もなく、支配領域の規定もないため、歴史的に観測されてきた「帝国」とは明確に異なるというのである。なお、前述のホプキンズも現代のアメリカ帝国論に関しては類似する見方を採っている。曰く、1898~1959年のアメリカがイギリス帝国と比較可能であるにもかかわらず、実際にアメリカが帝国として認識され、他の西洋帝国との比較されるようになったのは、アメリカが「渇望するヘゲモン」(aspiring hegemon)となった20世紀後半以降からであると*13

 しかしながら、現実問題として旧植民地国家には現在でも帝国的な暴力が残存する。例えば、本書の第8章や第10章では、日本の植民地支配と脱植民地化後のアメリカの干渉によってサバルタン・ステイトと化してしまった韓国と台湾が、いまもなお内政において日本やアメリカの影響を受け、硬直化していることが示唆されている。また、第6章ではインドのLGBT向け観光産業が、結局は西洋的ジェンダー規範に基づいて国家への利益供与に利用されていることを問題視している。本書全体を概観してみても、人種・ジェンダーに対する差別は帝国主義時代から現代にかけて連綿と続く帝国的暴力であることは言うまでもないだろう。これら現代においても観測される暴力を、帝国と不可分のものとして捉えることは無理があろう。では、狭義の「帝国」概念を重視する帝国史家の目には、これらの事象はどのように映るのであろうか。

 木畑はこうした現在も残存する帝国的暴力を「未完の脱植民地化」によるものと理解する。木畑は脱植民地化を政治、経済、文化・精神の3つの層に分けて、このうち政治的脱植民地化は帝国からの独立という形で多くの国家で達成されたが、経済、文化・精神の2つの層についてはいまだ達成されていないと主張する。例えば、旧植民地国は独立後も旧宗主国にとって都合の良い経済構造を押し付けられ、特定の農産物や鉱産物などの生産に特化させられる場合が多くあった。こうした経済構造がいまだ残存していることから、旧植民地国の経済的な側面での脱植民地化は未完であるとされている。また、アフリカ南東の国マラウイは、独立後17年経った1981年、独立指導者によって次代の指導者を養成する学校が創設されたが、そこではアフリカの歴史や現地語の教育は軽視され、イギリスの伝統的エリートの教育が模倣されていたという。この意味で、文化・精神の側面でもいまだ旧植民地国はイギリスの呪縛から逃れられずにいる*14

 なるほど、旧植民地国に残存する帝国的暴力は、現在進行形で存在する帝国によるものではなく、あくまでも過去の帝国に由来する負の遺産というわけである。確かに、第6章のような旧植民地国(インド)に残存する西洋的ジェンダー規範は、文化・精神の側面でインドという国が帝国から脱却できていないと理解することも可能である。しかし、第8章の韓国と台湾の事例は、いまだ内政に影を落としているのが旧宗主国の日本のみでなくアメリカも含まれることを鑑みると、西洋列強を宗主国としていたアフリカやその他のアジア諸国とは異なる状況と解釈することはできないか。また、アメリカ国内で残存する人種・ジェンダー差別、「裏日本」概念や沖縄基地問題が暴露する地方格差はどうか。これらは果たして、経済的脱植民地化、文化・精神的脱植民地化の枠組みに位置付けられるものであろうか。従来の帝国史研究が人種、ジェンダーといった要素を無視してきた事実がある以上、これらは従来の帝国史パラダイムには簡単に位置付けることができない問題であると評者は考える。

 木畑はホプキンズ同様、昨今隆盛を極めるポストコロニアリズム論に対して、経済史や政治史がなく空しいと批判的な評価を下している*15。しかし、「古い帝国史」(従来の帝国史研究)の大家P.J.マーシャルは、「新しい帝国史」を「古い帝国史」に刺激を与えるものとして歓迎すべきと呼び掛けている。「新しい帝国史」の台頭により従来の帝国史パラダイムが無用になるのではないかと恐れる帝国史家の「ケア」を担っているのである。文化史自体は帝国史の文脈でも長いこと研究されてきたため、従来の帝国史家が「新しい帝国史」に学び、文化史の側面で新たな成果を出すことも可能であると。したがって、重要なのは「古い帝国史」と「新しい帝国史」をつなぐことであると*16

 狭義の「帝国」概念を重視する従来の帝国史研究と「新しい帝国史」との間の議論はしばらく平行線の状態が続くことが予想される。こうした論争が生じていることから、「帝国」概念の再定義や帝国史パラダイム転換が必要な時期が来ていることは間違いない。かつて、冷戦期において実証(現実)と抽象を両立したパラダイムとして評価されたのは、ジョン・ギャラハーとロナルド・ロビンソンによる自由貿易帝国主義*17であった。しかしながら、冷戦が終わりグローバリゼーションの時代が到来すると、世界はもはやこの理論では説明できない課題に直面することとなり、新たな理論的枠組みの必要性が叫ばれるようになった。そこで台頭したのが、今回紹介した「新しい帝国史」である*18。この意味で、本書のような日本語による「新しい帝国史」の研究成果が出版されたことは意義深い。

 また、時代とともに我々の「暴力」の認識も変わりつつある。かつての帝国的暴力といえば、軍事力や身体的暴力に等しく、例えば、イギリス帝国のインドにおける宣教、英語教育といった同化政策は、文化的な力によって植民地に感情的紐帯を創出する「道徳的プロジェクト」と考えられていた*19。しかし、こうした同化政策は本書の問題意識からいえば、まぎれもなく帝国的な暴力であろう。最近の話題では、アカデミー賞授賞式におけるウィル・スミスの平手打ちの発端となったクリス・ロックの暴言も好例である。いかなる暴力も許容されるものではないが、言葉の暴力についてはどうだろうかと。このような現代世界に山積する問題を理解・解決する上で、本書および「新しい帝国史」が道標となることを期待している。

 

参考文献

・Cain, P. J.; Hopkins, A. G., British Imperialism: 1688-2015, 3rd Edition (Oxon, 2016).

・Gallagher, John.; Robinson, Ronald., “Imperialism of Free Trade”, Economic Historical Review, New Series 6: 1 (1953), pp.1-15.

・Hopkins, A. G., American Empire: A Global History (Princeton, 2018).

・木畑洋一『イギリス帝国と帝国主義—比較と関係の視座—』有志舎、2008年。

竹内真人「インドにおけるイギリス自由主義帝国主義竹内真人編著『ブリティッシュ・ワールド—帝国紐帯の諸相—』日本経済評論社、2019年、37~61頁。

・平田雅博「帝国論の形成と展開—文化と思想の観点から—」『社会経済史学』第80巻第4号、2015年2月、475~490頁。

・平田雅博『ブリテン国史のいま—グローバル・ヒストリーからポストコロニアルまで—』晃洋書房、2021年。

レーニン(角田安正訳)『帝国主義論』光文社、2006年。

 

Webサイト

The Telegraph India (https://www.telegraphindia.com/).

 

*1:Guha, Ramachandra., “Deadly delusions”, The Telegraph India, 6, April, 2022 available at https://www.telegraphindia.com/opinion/deadly-delusions-four-military-misadventures/cid/1853504 (accessed April. 6, 2022).

*2:レーニン(角田安正訳)『帝国主義論』光文社、2006年。

*3:Cain, P. J.; Hopkins, A. G., British Imperialism: 1688-2015, 3rd Edition (Oxon, 2016).

*4:平田雅博『ブリテン国史のいま—グローバル・ヒストリーからポストコロニアルまで—』晃洋書房、2021年、58~59頁。

*5:平田雅博「帝国論の形成と展開—文化と思想の観点から—」『社会経済史学』第80巻第4号、2015年2月、480頁。

*6:平田『ブリテン国史』、181頁。

*7:同上、193~197頁。

*8:Hopkins, A. G., American Empire: A Global History (Princeton, 2018).

*9:Ibid., pp.31-32.

*10:Ibid., p.736.

*11:Ibid., pp.341-343.

*12:木畑洋一『イギリス帝国と帝国主義—比較と関係の視座—』有志舎、2008年、10~25頁。

*13:Hopkins, American Empire, p.736. 木畑も現代のアメリカは帝国ではなく「ヘゲモニー」と呼ぶべきであると考えている。木畑『イギリス帝国』、29頁。

*14:同上、214~217頁。

*15:同上、32頁。

*16:平田「帝国論の形成」、479~480頁。

*17:Gallagher, John.; Robinson, Ronald., ‘Imperialism of Free Trade’, Economic Historical Review, New Series 6: 1 (1953), pp.1-15.

*18:平田『ブリテン国史』、6~10頁。

*19:竹内真人「インドにおけるイギリス自由主義帝国主義竹内真人編著『ブリティッシュ・ワールド—帝国紐帯の諸相—』日本経済評論社、2019年、37~38頁。